吐く息が白いことに気付くとそれを確かめるように息を吐いてしまう。白い吐息は空に昇ってすぐに消えて。消えたのを確認し、寒さに身を縮めながら歩いていると前方に見覚えのある背中を見つけた。この目は嫌になるくらいの姿を見つけ出す。
はふらふらとした足取りで歩を進めている。そんなに俯いて歩いてたら転ぶぞ。今直ぐ飛んで行ってそう囁きたい衝動に駆られても、もうオレにはその資格が無い。今までは当たり前のように傍に居たのにその体温を感じられない。唇を薄く色づかせるリップクリームの甘い香りも遠くなってしまった。
別にが居なくたって世界は回るし変わりは無い。オレとは別々の人間だってことも分かってる。でも今、まるで体の半分を持って行かれたように手応えが無い。クラスで笑ってても、部活で口惜しい思いをしても心の奥に感じる空虚。そこにあったと証明出来ないのに、確かにそこには何かがあった。あったんだと、思う。
***
「じゃあ次を……切原」
「げ」
つい声が出てしまった途端、教室は笑いに包まれる。
「げ、じゃない、全く。今回は勘弁してやるから早く読め」
「へーい」
渋々教科書を持つと前方の席に座るの小さな背中が目に入った。以前までだったらは振り向いて、馬鹿だね、とでも言うように笑ったに違いない。だが、は振り向かなかった。胸にもやもやと黒いものが広がる。
……何だよその態度。
理不尽だと分かっていても無性に腹立たしい。頑なに振り向かない、その背中が。わざと大きな音を立てて椅子を引くとは小さな背中を震わせた。
……ざまみろ。
何に対してか分からないまま、一人毒付いて教科書を持ち直す。
「およそ能登守教経の矢先にまはる者こそなかりけれ。矢種のあるほど射尽くして……」
誰だよ能登守って。そんな昔のことなんて、俺の役に立つ訳無ぇんだよ。
*
部室のドアを開けようと鍵を差し込むと手応えが違った。訝りながらノブを回すと難なく回る。そうっと開けてみると柳先輩が立っていた。
「お疲れ、赤也」
部室の中の空気も冷たいのに、柳先輩の佇まいからはそれと知ることは出来ない。もこもこに着膨れているオレとは裏腹に、制服だけなのに。
「お疲れっス」
「遅刻せずにちゃんと来ているようだな」
「そりゃ来ますよ、いちお、部長っスから」
笑いながらマフラーを取ると首元が冷やりとする。寒いので、急いでユニフォームを着込みながら柳先輩を見ると、着替える様子は無い。
「あれ、着替えないんスか?」
引退してしまったけど、高校に上がってもテニスを続ける先輩たちは、週に何度か練習に参加していた。小うるさい先輩たちに囲まれての部活は居心地が悪いのと、置いていかれそうで寂しいのと半々で。
「今日は、忘れ物を取りに来ただけなんだ……ああ、丸井とジャッカルは参加するようなことを言っていたな」
「あ、そうなんスか」
個人のロッカーは既に引き継がれているので、柳先輩は共用のロッカーからタオルを取り出した。柳先輩が忘れ物するなんて珍しい。これが丸井先輩ならよく分かるんだけど。うっかり笑いそうになって唇を引き結ぶと、柳先輩はタオルに視線を落とし呟く。
「ファントム・ペインという言葉を知っているか」
「ファントム・ペイン?」
いつもながら柳先輩の発言は唐突で俺はその単語を繰り返しただけだった。柳先輩は小さく笑う。
……ファントム、っていうとオレのサーブのことだよな。
だけど、ペイン、って何だろう?
「幻肢痛、とも言うな」
柳先輩はそう言って、ホワイトボードにさらさらと書いて見せた。
……幻の、痛み。
柳先輩はきゅっと音を立ててマジックの蓋を閉める。
「事故や病気などで手足を失っても、その失くした部分に痛みや痒さを覚えることがあるんだそうだ。それを、」
「ファントム・ペイン……」
こくり、と柳先輩は頷いた。何で急にこんなことを言い出すんだろう。微かに感じる、嫌な予感に今直ぐここから逃げ出してしまいたくなった。
「……精市が心配していた」
「幸村部長が?」
柳先輩は唇の両端を上げる。
「今はお前が部長だろう?」
「あ、ついクセで……。で、幸村……先輩、は何て?」
頭をかくと、柳先輩は手の中のタオルを弄びながら続けた。
「……お前の調子が良くないようだ、と。何かあったんじゃないか、と」
「何も……」
「俺を侮ってもらっては困るな」
誤魔化すことを許さないように真っ直ぐに見つめられる。オレはため息をついて笑った。
「本当に、何も無いんスよ。なーんにも、無くなっちゃったんで」
「……のことか」
本当にもう、嫌になる。柳先輩の知らないことなんて、無いんじゃないかってくらい、知っているんだから。
同じクラスのと付き合いだしたのは、丁度オレの誕生日だった。告白してきたのを、オレは二つ返事で受け入れた。話していて気が合ったし、こっそり可愛いな、と思っていたから。付き合ってみてもそれに変わりは無くて、部活ばかりでなかなか会えなかったけど、どんどん好きになっていった。拗ねる仕種、オレを見つけた瞬間の笑顔、赤也、と名前を呼ぶ時の甘い、声。でも好きなだけでは続かなかった。好きなのに、好きだったのに些細なことから発展した口論につい、もう別れる、と言ってしまった。
あの時のの表情は忘れられない。まるでこの世の終わりでも見てしまったかのように目を見開いたの頬には綺麗な線を描いて涙が零れた。即座に後悔したオレに言葉を発する余裕も与えないまま、はその場から走り去ってしまった。
思い出して苦い顔をしているオレを一瞥した柳先輩は続けた。
「諦めるのはまだ早い気がするんだが?」
「……なにを、ッスか」
「分かっていて訊くのは感心しないな」
思わず俯くと解けかけたシューズの紐が目に入る。紐は結べばいい。だけど、人の気持ちはそんな風に簡単じゃ、無い。
「でも……どうしたらいいのか」
「―――精市から伝言だ」
「……え?」
柳先輩はオレにタオルを放ったので、慌ててそれを受け止めた。
「考えても答が出ないなら当たって砕けて来い、だそうだ」
思わず苦笑すると、柳先輩はタオルを指す。
「ちなみにそれは丸井のだ。後で渡しておいてくれ」
「……え?」
「……お前も、そう思っただろう?」
ちくしょう敵わねーな、と口惜しく思ったけど、オレは笑って頷いた。
***
「―――、」
オレの声にの背中がびくんと跳ねる。下校時刻から結構経ったので下駄箱の辺りに人影は無かった。はゆっくりと振り返り、訝るようにオレを見上げる。委員会か何か分からないけど、下駄箱の中にまだのローファーが残っているのを見た時、一人、ガッツポーズをしてしまった。
「……何」
口の中が渇いて、うまく言葉が紡げない。
「話、あるんだけど」
「私には、無いよ」
震える声で呟いたくせに、オレを睨みつけた。
「オレは、あるんだ」
そう言って手を伸ばすとはその手を振り払う。乾いた音に、オレ以上にが驚いていた。
「あ、赤也は……」
「オレが、何だよ」
は涙ぐむ。泣きたいのはこっちの方だ、咽喉までせり上がった言葉を何とか飲み込み続きを待った。何度か物言いたそうに開いた唇は綺麗なピンク色で。
「な……何で、私に……平気な顔で、話しかけられる、のっ」
「平気じゃねぇよ」
「嘘」
「嘘じゃねぇし」
ほろほろと涙を零し息を詰まらせながら言葉を紡ぐ姿は苦しそうで苛めている気分になった。泣かせたい訳じゃないのに。オレはジャージの袖を引っ張って延ばし、の顔を拭う。顔を拭われたはぱっと顔を背けた。
「……そんなに、オレと話すのが嫌かよ」
は眉を寄せ唇を噛む。
「嫌ならそれでもいいよ。だけど一つだけ言わせてくんねぇか」
「……何」
手を伸ばすと今度は振り払われなかった。小さい手は温かくて。
「オレ、お前が傍に居ないの、耐えらんねーんだ」
「え……?」
「別れようって言ったのはオレだけど、やっぱり別れたく、ねぇ」
ぽかんとしたようにオレを見ていたの瞳を再び涙の膜が覆う。許容量を越えた涙が頬を伝った。
「……あ、赤也は、勝手だよ……っ」
「うん」
手を引っ張ってその肩を抱き寄せる。泣いているせいかいつもより体温が高いように感じた。どん、とこぶしで胸を叩かれる。
「今更どうして、そんなことっ……」
「……が居ねぇとさ、」
シャンプーの匂い、リップクリームの甘い匂い、の匂いを肺に充満させて呟いた。
「腕がもげたんじゃねぇかってくらい、痛い気がすんだよ」
「……そんなの、私もだもん」
はオレの背中に腕を回す。ぎゅっと、しがみつくように。その仕種に安堵のため息をついた。
「……赤也、部活は」
すん、と小さく鼻を鳴らしたは腕の中で口を開く。
「抜けてきた……先輩達、引退してて良かったぜ」
「……本当は寂しいくせに」
さっきまで泣いてたくせにはくすりと笑った。
「……うるせーな」
そう言って腕に力を籠める。あかやくるしい、とは呟いたけど、抵抗しなかったから更に力を籠めてやった。痛みが嘘みたいに引いていく。
「……ごめん」
「……赤也の馬鹿」
可愛くないことを言うは、腕の中でとても可愛く、笑った。
('08.2.10)
タイトル先行。ずっと使ってみたかったタイトルなのです。で、冒頭の吐く息が白いのを確かめる、というのを思いついて。
以下、蛇足ー。
あと、知り合いの男性が「彼女が居なくなったら、片腕が無くなったみたいに感じると思う」とおっしゃっていて、凄ぇな、と思ったところから。そんな風に彼女のことを言えるのが凄い(ていうか何の話をしていたんだろ……?)。
そうそう、文中で赤也が読んでいるのは平家物語の一節です。何でこれにしたかと言うと、私が教育実習で教えたところだからです(中二の子達に)。秋だったけど。