Lunar farside―side.B
「ジャッカルー、俺ちょっと美術室行ってくる」
「何で。この前課題は出したんだろ」
「ちょっと用事」
そう言うとジャッカルは変な顔をした。
「お前が美術室に用事?」
「ま、いいじゃん? 真田に言っといて。少し遅れるって」
「―――何じゃ丸井、何処か行くん?」
「仁王」
その隣には柳生も立っていた。柳生は眼鏡をそっと上げながら口を開く。
「部活に行かないのですか?」
「後から行く」
そう言い残し、俺は美術室に向かった。
*
美術室にはしか居なかった。この前みたいに、木炭デッサンをしている。何となく邪魔出来なくて、その姿を見ていた。木炭と木炭紙の擦れ合う音だけ響く室内。張り詰めた空気に、俺は背中がぞくりとした。
ふ、とため息をついてが手を下ろす。そして、突然くるり、と振り向いた。と、ドア口に立つ俺の姿に気付き、体を震わせる。
「ま、丸井くん……?」
「邪魔した?」
美術室の中に足を進め、の近くに腰を下ろした。
「そんな事、無いけど、どうしたの? ちゃんなら、今日は用事あるって帰ったよ?」
じっくりと噛み締めるような話し方に、俺は笑う。
「に用事じゃねえよ」
「じゃあ、なあに?」
何処か怯えるようには言う。
「ちょっと、見学?」
「見学、って……丸井くん、部活に行かなくていいの?」
「後で行く」
そう言っての描いていた木炭紙を覗き込んだ。重なって描かれた線は力強く、これを描いたのはここに居るだとは思えなかった。その視線に耐え切れなかったのか、は口を開く。
「えと、あの、コーヒー飲む?」
「飲む」
「ちょっと、待っててね」
す、と立ち上がって、準備室の方に向かう。程無くして、はカップを載せたトレイを持って戻ってきた。
「はい、どうぞ。お砂糖、要る?」
「うん」
そう答えるとスカートのポケットからスティックシュガーを取り出した。呆気に取られて見ていると、微かに笑う。
「持って来てたんだけど、置くの、忘れてて」
「ああ……サンキュ」
砂糖を入れ、適当にかき混ぜ口を付けた。
……もう一個貰えば良かったかな。
苦いそれを飲みながらに目を遣った。は、両手でカップを持ったまま考え込んでいる。そして意を決したように顔を上げた。
「丸井くんて、私のこと、嫌いなんじゃないの?」
「はア?!」
思わず飲んでいたコーヒーを吹きそうになった。俺の声には肩を震わせる。
「悪ぃ。……何でそんな風に言うワケ?」
「ちゃんとこに行く度に、睨まれてたから……」
……気付かれていたのか。
にも気付かれていたのだから本人が気付くのも当然だろう。
「そんな事、無ぇよ。気にすんな」
「そう……? なら、良かった」
はようやく微笑んだ。
「ずっと……嫌われていると思っていたから」
ふふふ、と忍び笑いを漏らし、安心したようにカップに口を付ける。
……何だ、可愛いじゃん。
ふいに浮かんだ感想に俺は驚いた。は小首を傾げる。
「どうしたの?」
「……別に。なあ、もう描かねえの?」
「ええ? 描く、けど」
「見てると邪魔?」
「邪魔なんて、そんな」
顔を赤くして、は言う。
「俺の事は気にせず描いてくれよ」
「う、うん……」
は、カップを近くにあった椅子に置き、木炭を手に取った。一度、深呼吸して木炭紙と石膏像を見据える。再び、室内は木炭と木炭紙の擦れ合う音しかしなくなった。間近で見ていると、その集中具合がよく分かる。
……俺が見ていたは、の一面にしか過ぎなかったんだな。
おっとりした口調や、ゆるい笑顔だけで決め付けていた事を何となく恥じた。今までむかついていた笑顔も、こうして見ると悪くなかった。可愛いな、と素直に思った。
ゆっくりと暮れていく空が、室内をオレンジ色に染めていく。それでもの手は止まる事が無い。横顔は厳しく、俺がここに居る事すら忘れてしまったようだった。ふとその肩が緩んだかと思うと、は木炭を置く。
「完成」
「お、出来た?」
は顔をこちらに向け微笑んだ。
「出来ました」
改めて木炭を持ち、、と端の方にローマ字で書く。その姿を眺めていたのだが、ふと時計に目を遣った。
「ああ!」
「え、どうしたの?」
「やっべ、部活行くの忘れてた」
真田が怒り狂う様が脳裏に浮かび立ち上がる。
「う、うわ、あの、真田くんに怒られるんじゃ……」
何故かつられたようにおろおろとが言う。
「そう。じゃ、俺行くな」
俺はバッグを掴み、足早に美術室を出ようとした。
「うん。あの、部活、頑張って」
背中に掛けられた声に、俺はドア口で振り返り、言った。
「コーヒー、サンキュ。……なあ、また見に来てもいいか?」
は目を瞠った後、笑った。
「うん」
一段飛ばしで階段を降りながら、の笑顔を思い出していた。ふわり、と柔らかい笑顔は何だか胸に残って、こそばゆい。
……駄目だ、顔が。
これから真田に怒られるというのに、俺は笑みしか浮かべられなかった。
('04.9.17)
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