階段を上がってくる軽い足音の後、部屋のドアがノックされた。
「どーぞ」
ドアの開く音と共にさっきの足音の主が部屋の中に入ってくる。
「……おかえり、光」
涼やかな声、と言えば聞こえはいいが、感情の読み取りにくい声だった。
「おう」
ローテーブルに置いた、ノートパソコンのディスプレイから目を離さず返すと、背中に重力がかかる。遅れて漂う甘い香りにため息をついた。首を後ろに捻らなくても分かる。原因はだ。
「そのサイト面白い?」
マウスを握ったままの俺に、さほど興味があるように思えない口調では訊いた。
「まあまあ」
「ふうん。……今日は遅かったんやな」
「あー、ちょっとな」
また、ふうん、と分かったんだか本当は分かってないんだか、唸るような返事をする。背中合わせに座っているせいでの声は体に響いた。その表情は分からない。ただ体温が伝わってくるだけで。
背 中 越 し の 体 温
隣家の一つ上の幼なじみは、たまにやって来ては背中合わせに座って寄り掛かってくる。そうされると表情は見えないが、長い付き合いなので大体何を考えてるか分かった。柔らかい感触とほんのりと伝わってくる体温を意識すると最近は複雑な感情が湧く。
「……何かあったんか」
「そりゃあ、生きてたら毎日何かしらあるわな」
振り切るように発した問いに返された答えはやはり平坦だった。俺は小さく詰めていた息を吐く。
「……さよか」
生徒会に入ってから、がうちを訪れることが増えた。仕事が嫌では無いのだろう。その証拠に自分から立候補していたのだから。だけど、そう、息切れするみたいに、ほんの少し疲れてしまうのだと思う。走り回っているは何処か楽しそうだけど、実際、充実していると漏らしたことがあるけど、疲れない訳では無い。そしてそれを素直に口にする性格でも無いので、黙ってくっついて来るだけなのだ。意地やプライドが高いのではなく、言ってもその場凌ぎに過ぎない、と思っているに違いない。
俺も低温だと言われるが、はそれに輪をかけて低温だと思う。は小さい頃から醒めているというか、情緒が安定しているというか、一定の感情レベルを保っているように見えた。内情は落ち込んだり喜んだりしているのに表面に見えてこないから。
「……今日なぁ、社会の授業で面白いことを聞いてん」
「……は?」
突然喋り始めたに間抜けな返答しか返せなかった。そんな俺に構わずは続ける。
「大昔、人間は一つの体に二つの頭を持ってたんやって。こう、二人が背中合わせにくっついとって、それで一人やった訳や。そんな二人で一つの完璧な体やったのに、それが、二つに分かれてしもた」
「……何じゃそら」
自他共に認めるリアリストのの口から出たとは思えないセリフに面食らっていると、は立ち上がった。にっこり、と珍しく楽しそうに唇の両端を上げたは俺を見下ろしたまま口を開く。
「それ聞いた時、光のこと思い出した」
「……え?」
眉根を寄せてみてもの唇は弧を描いたままだった。壁にかけた時計に目をやったは踵を返す。
「そろそろご飯やから帰る」
「は?」
「……またな」
ドアを閉める前に、は振り返って小さく手を振った。
……社会?
白い手を思い出しながら、腕を組む。それを今直ぐ確かめる術が俺には無い。の持つ教科書は来年にならないと手に入らないのだから。しかし、手段が無い訳では無い。
……物凄く、不本意やけどな。
◇
「……あ」
……と、部長。
それは何らおかしい組み合わせではない。生徒会でのは部活動との折衝を担当しているので、こうしてよく各部の部長と話している姿を見ることがあった。はプリントを手に白石部長と何やら話し込んでいる。白石部長は、二年から部長を務めるだけあって実力もリーダー性もある。しかも、男前だ。も際立って目立つ程ではないが、悪くない容姿をしているし、生徒会で活躍しているので二人の組み合わせはとても“お似合い”に見えた。だからこそ、ちりりと胸の奥が痛む。声をかけることも出来ずいると、の視線が俺を捉えた。
「光」
「ん? おー、財前」
笑みを浮かべた白石部長に会釈する。もほんの少し唇の端を上げた。
「何してんスか」
「部長会議のお知らせやって」
プリントをひらひらと掲げる白石部長に微かに苛立つ。担任経由で配付すればいいものを、わざわざ一人一人配っているのか。それを見透かしたようにがファイルに目を落としながら呟いた。
「訊きたいこともあったしな。そういうんは白石に任せとるから、てオサムちゃんに言われてん」
くすり、と思い出したように小さく笑うに、白石部長はため息をつく。
「変なトコで放任なんやもん、オサムちゃん」
「信頼されてんねやね」
「こういうんは信頼ちゃうやろ」
「ある意味、な」
息の合ったやり取りに収まりかけた感情がざわざわと騒ぐ。
「そっスか……お疲れ様っス」
俺は二人の姿を見ていたくなくて踵を返した。視界から消してしまっても無かったことには出来ないと分かっていたけれど。
◆
「……社会?」
「はあ」
部活の後、着替え終わった俺が切り出すと、既に着替え終えていた謙也先輩はきょとんとした顔をした。
「何でまた」
「……そ、」
何かしら言い訳をしようと口を開きかけると背中にのしかかられる。
「何よ〜、アタシに言うてくれたらええのに〜」
「浮気か!」
「……マジでキモイっす先輩達……」
尚もわあわあ騒ぐ金色先輩と一氏先輩にうんざりしていると珍しく練習に参加していた千歳先輩と目が合った。
「……師範やな」
「は?」
「謙也は置いてきとる」
訳が分からなくて謙也先輩に視線を移すと先輩は肩をすくめる。
「正解や。テスト期間でも無いんに持って帰って来る訳ないやろ」
あかんなあ、と白石部長が小さく零し、謙也先輩は苦笑した。
「師範、持ってはります?」
「ああ」
にやり、というには邪気の無い感じに千歳先輩が笑う。見通されているみたいで居心地が悪くなった。意図するところまで読まれている気がする。師範から教科書を受け取りぱらぱらと捲ってみるが肝心の箇所が分からないことに気付いた。
「一つの体に二つの頭、って何処すか」
「ああ、倫理のとこか。後ろの方や」
師範が捲ってくれようとすると金色先輩が口を開く。
「男と女は元々背中合わせの一体、アンドロギュロスであったが、神によって二つに切り離された。このため、失われた半身を求めるのだ」
金色先輩は眼鏡をかけ直し微かに笑う。
「プラトンの『饗宴』やね」
それに白石部長は頷いた。
「ああ、あれか」
「あの絵、結構怖ないか」
謙也先輩の呟きが、遠くに聞こえる。俺はそこに書かれている文章を咀嚼しようと必死になっていた。
……失わわれた、半身?
―――光のこと、思い出してん。
耳の奥での言葉がこだまする。まさか、いやでも何処か揶揄うようでは無かったか? 真意が読めないの口調を、初めて不満に思った。
◇
何時も通りの軽い足音と控え目なノックの後、が部屋に入って来た。俺はマウスから手を離し、勢い良く振り返る。はびっくりしたように目を見開いていた。
「何なん、急に振り返って」
「あれ、どういう意味」
「あれ?」
まあ座れ、と手のひらを下に上下させるとは眉を寄せつつ座り込む。
「……何で正座」
「いや何となく」
は居心地悪そうに俺が口を開くのを待っていた。所在無さげに組んでいる細い指に視線を合わせて俺は口を開く。
「社会の教科書、見せて貰てんけど」
「ああ、見たんや」
は安心したように笑った。
「どういう意味」
「どういう意味?」
はおうむ返しのように答える。
「せやから、なんちゅうか……」
はじっと俺を見つめ、続きを待っていた。あまりの表情の変化の無さに落胆と苛立ちを覚える。ほらやっぱりな、何の気無しに言うたことなんや、と。
「……あれ聞いた時なあ、ああ光のことや、って思うてん」
「……は? 何やそれ……」
は眉を寄せた俺に首を傾げた。
「……何言うてるか分からん」
「何で」
不思議そうに訊くにいらつくのを通り越して呆れる。
「それの何処が俺に繋がるんや、言うてんねや」
「だから、私は光にくっつきたいんやな、って思うた」
言葉足らずのの言葉は、向けられた視線と同じように真っ直ぐに胸に刺さった。
「……俺は、背中合わせとか嫌や」
「そうなん?」
「背中合わせやのうて、」
口に出すのを迷っているとはまた首を傾げる。
……鈍いんか、何なんか分からへんな。
呆れながら、俺はに腕を伸ばした。
「折角背中がくっついてへんねやから、こうしたい」
「……そか」
は微かに身を強張らせながらも、俺の背に手を回す。柔らかい感触と甘い匂いに鼓動が速まる。心音が全身に鳴り響く。
「……ずっと、」
「……え?」
呟くように落とされた言葉に返した声はかすれていた。
「ずっと、くっついたら光の気持ち、分かるんやろか、思てたんやけど」
「うん」
「やっぱり、分からへんかった」
「そらそうやろ。別々の人間なんやから」
うん、と小さくが身動ぐ。
「……俺は、別々で良かった思うで」
「ええ?」
「別々の人間やから、こうして抱き締められるからな」
抱き締める腕に力を籠めるとは、ちょっと苦しい、と非難するように零したけれど、腕を解いたりはしなかった。それどころか猫がすり寄るみたいに肩に額を押し付けてくる。鼓動は馬鹿みたいに速いけど不思議と落ち着いていた。
「光、私のこと好き?」
「……自分はどうなんや」
「私は光のこと好きやで」
口籠りもせずに言ってのけるの口調はやはり淡々としている。今日は晴れてたな、とか、お裾分けしに来てん、というようなことを告げる時のように。
「……俺も、好きや」
でも伝わってくる鼓動は速くて、背中に回された手は温かく、微かに震えていて、それが答えだと思った。
('11.5.18)

中三で倫理やりましたっけ…と思いつつもアップ(公民の後ろのほうに少しだけあったような気がしたんですけど)。背中合わせに座る、というところから考えていったらこういう話になりました。この話(男と女は元々背中合わせの一体〜てとこです)好きなんで絡められて嬉しい。
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