夕暮れの中、時が止まる。
夕凪
「はい、」
「あ……、有難う」
伸ばした手に、そっとプリントを落とした彼は。
「どういたしまして」
佐伯虎次郎は、そう言って笑った。
佐伯は私の事を好きだと言った。
あの佐伯に、好きだと言われたからといって自惚れるつもりでは無い。あの夜、海で会った夜の後と前と、佐伯の態度は変わらない。あまりにも変わらないからあの時の事は夢だったんじゃないかと思うほどだ。
でも、それでいい、と思った。変わられたら、きっと私は困り果てる。どんな顔をしていいのか、分からなくなってしまう。
だからといって、好きだと言ってくれた事を信じてない訳では無い。戯れでそんな事を言う人ではない、と何処か妙な確信があった。何より、静かに話を聞いてくれた彼を、泣いた私を抱き留めてくれた彼を、嘘だと思いたくなかった。
佐伯を好きになったのかと問われたら、分からない、と答えるだろう。佐伯が気にならない訳じゃない。それでも、以前ほど泣かなくなったにしろ、別れた彼に全く未練が無くなった訳では無いし、その彼が、別の子と付き合い始めた事を知った時、私は激しく落ち込んだ。私に向けていたような優しい顔で彼女に笑いかけ、一緒に帰る二人を見るだけで胸が張り裂けそうだった。私の何がいけなかったのだろうと自責の念に駆られた。
そんな私が泣かずに真っ直ぐ立っていられたのは、佐伯が居てくれたから。こんな私でも、好きと言ってくれる人が居る、と自分を慰めていたのだ。自分で自分が嫌になる。そんな女が、佐伯の気持ちに応える訳に行かない。矛盾するようだけど、あの優しい人に、私は相応しくない、と思った。
***
ふと視線を感じて顔を上げると佐伯が居た。目が合った彼は、柔らかく笑う。
よく、笑う人だと思ってた。クラスの人達とも、テニス部の人達とも楽しげに笑っているのをよく見かけていたから。端整な顔立ちの割に軽口を叩く、人当たりの良い彼は女子からだけでなく男子からも人気がある。その笑顔が、自分だけに向けられると、押さえられたみたいに胸が締め付けられた。
「どう……、したの?」
「どうって?」
「……質問に質問で返すなんて、反則だよ」
「どうしたって訊かれても答えようが無かったんだ」
それもそうね、と相槌を打つと佐伯は私の前の席に座る。
「日直の日誌?」
「そう」
「もう一人は?」
「……何時の間にか帰ってた」
ため息混じりに返すと勿体無いね、と笑う。
「勿体無い? 何が?」
「俺が相手なら先に帰ったりしないのに」
私は何と返していいか分からなくて黙り込んだ。そんな私を見て佐伯は忍び笑いを洩らす。
「ねえ、」
顔を上げた私に、あの時のような優しい声で呼び掛けた。
「触れてもいい?」
「……どうして?」
「質問に質問で返すのは反則なんだよ」
佐伯は悪戯っぽく笑って言った。
「……だって、他に答えようが無い」
私の答えに、佐伯は目を細める。
「じゃあ改める。に、触れるよ」
思わず、息を呑んだ。私から目を逸らす事無く、佐伯は言う。
「嫌なら嫌って言って。そうしないと俺は調子に乗るから」
「調子に、乗るって」
言われた内容と、不釣り合いな声の調子に、思ってた通り、私の眉根は自然と寄った。
「隙あらば、って思ってるからね。入り込む余地があるんなら俺は諦めないよ」
「……そんなに、手の内を明かしていいの」
「無理強いはしたくないんだ。それにかけひきとかは好きじゃないだろう?」
「そう、だけど」
混乱したまま答えると、佐伯は席を立ち、私の隣に立った。
「好きなんだ、が」
さらりと言われた言葉に彼を見上げる。佐伯は真剣な眼差しで私を見下ろしていた。その顔に、胸を柔らかくこじ開けるような笑みは無い。つかえながらも流れていた時が、止まったような気がした。無風状態の中、何も考えられない。
「私、は、」
それきり、言葉を口にする事は出来なかった。自分の鼓動がうるさくて、両胸の間が痛くて、呼吸すら覚束ない。真直ぐに私を射抜く視線で焦げてしまいそう。
「だから、本当に嫌なら必死で逃げて。でも、」
私の頬にそっと触れる。触れられた瞬間、静電気みたいに火花が散ったかと思った。佐伯は美しく微笑んで告げる。
「逃がすつもりは、無いんだよ」
口の中が、咽喉の奥が、からからに渇いて何も答えられない。確かめるように頬を撫でる指は冷たく、触れられた頬は熱く。
「……無理強いは、しないんじゃ、無かったの」
ようやく発する事が出来た声は、ひどく擦れていた。
「嫌なら手を振り払えばいい。簡単だろう? それに……そこまで鈍くは無い方だと思うんだけど」
どうして鼓動が速いの。
どうしてざわざわと胸の奥が落ち着かないの。
……ううん、本当は分かってる。
どうしようもなく、佐伯に惹かれている事を。
未練があるのも、二人で帰る彼らに胸を痛ませていたのも、嘘じゃない。嘘じゃないけど、佐伯に触れられたかった。触れたい、と言った佐伯に、応えたかった。何て、強欲なんだろう。
「……駄目だよ。あなたに告白された事を、心の拠り所にするような女だよ? そんなの、相応しくないよ……」
やっとで告げた自分の言葉に奥歯を噛み締めた。かけひきなんて、どうやっても出来そうに無い。
「相応しいか、相応しくないかは俺が決める事だよ。俺はがいいんだ」
佐伯の指は、私の唇を辿り、顎を微かに上向かせる。視線を逸らす事を許さないように。
「それより、いいの? 逃げなくて」
穏やかな口調はいつもと変わらないのに凄味があって、否定の言葉を口にする事など出来ない。
「逃げないなら、肯定とみなすよ?」
佐伯は私の、顔にかかる髪を耳にかけ耳朶をなぞる。くすぐったいのと、心地良い体温に背中がぞくぞくした。
「……利用してるだけかもよ?」
「うん」
「あの人と駄目になったから、あの人の代わりにしようとしてるだけかもしれないよ?」
「……こそ、そんなに手の内を明かしていいの?」
佐伯は、く、と咽喉の奥で笑い、訊き返す。
「だって、分からないの……。 佐伯に触れられたいと思ったけど、よく、分からないのよ……」
「いいよ、今はそれで」
近付いてきた端整な顔に目を閉じると、こめかみの辺りに口付けられる。
「利用でも何でもしてくれていいから、俺と付き合ってよ」
「……うん」
目蓋に頬に、落とされる口付けは優しくて、自分が壊れ物にでもなったみたいだった。唇に落とされた温もりは、私の心を解いていく。そっと私を抱き寄せた腕は温かで、何だか涙が出てきそうになった。
***
「日誌、出してきた?」
職員室のドアを閉めながら私は頷く。
「うん」
鞄を持って、待っていてくれた佐伯は笑う。
「じゃあ、帰ろうか」
そう言って、佐伯は手を差し出した。
「え、部活は?」
「今日は休みなんだ」
「そう、なの……」
……あの時は首を横に振ったけど、今は。
躊躇った末、私は差し出された手を取る。私とは明らかに違う、手の感触に胸が躍った。佐伯は私の手をしっかり握る。
「」
「は、はい?」
「今直ぐ取って食おうなんて思ってないから、安心していいよ」
くすくす笑いながら言った言葉に顔を上げると、やっぱり、とまた笑う。
「すごーく、不安そうな顔してる」
「そ、そうかな」
「うん。手も震えてるし」
靴を履き替える時は、さすがに手を離したけど、玄関を出ると、佐伯は私の手を再び取った。
「いいんだよ、はそのままで」
「……佐伯、私に甘いよ。どうしてそんなに優しくするの」
「逃げる気が、起きないように」
からかうように言ったけど、本心からなのだろう。私は激しい動悸を誤魔化すように息をついた。
きっと、終わりが来るまで分からない。
手を取った事が、付き合ってという言葉に頷いた事が、正しいか、正しくないかなんて。でも、もう、佐伯の手を離したくない。寂しいからとかじゃなくて、佐伯の手を、離したくないと思う。
「明日も、晴れるかな」
「そうだね。夕焼けが綺麗だからね」
ふうん、と頷きながら私は、佐伯の手をそっと握り返した。
('05.7.23)
「潮騒」の続きです。
続きを書いてみたい、と思っていたので書き始めたのですが、どんどん長くなってしまって。おまけに、あと一つ続く予定(過去話)。
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