あの時から、消えることの無い。










海鳴










「……え?」
「だから、プリント。に持って行って欲しいの」
が行くんじゃなかったの?」

俺の問いに、は笑う。

「カレシが行った方が、嬉しいに決まってるじゃない!」
「……えーと、でも俺、」
「じゃ、よろしくー」

そう言って、はさっさと帰ってしまった。嘆息して、その背中を見送る。
……そりゃ、見舞いには行くつもりだったけどさ。
思考とは裏腹に、部活を休む大義名分が出来た事に頬を弛ませ、プリントを弾いてみた。

は、もう三日も学校を休んでいた。
何でも、季節外れの風邪をひいたらしく。メールを送ろうかとも思ったのだけど、律儀な彼女はきっと無理して返信しようとするだろうから、出来ずにいた。

帰り支度を整え、教室を出る。SHR終了直後の廊下は人に溢れていた。でも、この中に彼女は居ない。こんなにたくさんの生徒がひしめきあっているのに、居ない。が居ない教室が、学校が、こんなに広く感じるものだとは思わなかった。



***



……あ、
職員室から出て、教室に向かっていると、向こうから歩いてきたのは、同じクラスのだった。

三年になって、初めて同じクラスになったと話すのは楽しかった。
自分が校内で、それなりに知名度があることは自覚している。そんな俺に変に媚びたり、逆に、自分の劣等感を誤魔化すために俺を見下したりするような連中と、は違った。俺について回る噂は、どうでもいいと思ってるみたいに俺と話す。周囲から浮いてる訳でも、無関心という訳でも無く、ただ、その人を見て、彼女なりに相手に対する評価を決めているように見えた。

かと言って、博愛主義者だとか、八方美人だという訳でもなく、結構好き嫌いは激しいみたいで、好きな相手以外には関わろうとしない。その相手が、人気があっても嫌いならそうするし、好きならその相手が周囲にどう思われていようとお構い無しに。
そういうきっぱりしたところが、とても気に入っていた。

俯いて歩いていたは、ふと、顔を上げた。はっとしたように立ち止まり、瞠目したの唇は緩く弧を描き、微笑の形を作る。
……息が、止まったかと思った。
そこだけライトが当たったみたいに、柔らかな光を放ちは微笑んだから。
喜びに目を細め駆け出した彼女は、俺の横を擦り抜けていく。通り過ぎた甘い香りにつられ振り返ると、が付き合っている、隣のクラスの陸上部の男が立っていた。

「移動教室?」

柔らかな声が耳をくすぐる。そいつと居る時のは、そいつを好きで仕方ないと全身で語っているようだった。それは、以前から知っていたのだけれど。

ぐらぐらと世界が歪み、耳鳴りがした。あの笑顔が俺に向けたものであれば良かったのに、と思わずに居られなかった。

「……サエ!」

その声で我に返る。声のした方に顔を向けるとバネが立っていた。

「探してたんだ。数学の教科書持ってねえ?」
「あ、うん。持ってる」
「……どうした?」
「何が?」
「いや、何か……、」

口籠もったバネは困ったような顔をした後、続ける。

「えーと、あれだ、具合悪そうな顔してるぜ?」
「何言ってるんだよ」

笑って返すと、バネは首を振った。

「いやいやマジで。心ここにあらずっていうか」

……心ここにあらず、か。
その通りだ。一瞬で、胸を攫われた。抵抗する間も身構える暇も、なかった。今も速い鼓動を、どうやって大人しくさせようかと必死だった。

「何でも無いって」
「なら、いいけどよ……」

心配そうに見つめるバネに笑って見せる。

「えーと、数学だっけ?」
「おう」

俺は今見た光景に蓋をするように、踵を返した。


*


授業中、斜め前の席のを見遣ると、真面目にノートをとっていた。さっき見た笑顔が嘘のような真剣な顔をして。

のことは気になっていた。それは確か。
でもそこに、恋愛感情など無かった。クラスメイトの中でも割と喋る、それだけでしか無かった筈なのに。そう思って気付く。
……過去形かよ。
自分に対するツッコミで思わず笑いが出そうになった。


*


自覚してから、の、ひとつひとつの仕種に反応するようになった。
今までは何とも思っていなかった事にも。

「佐伯、これ有難う」
「いえいえ、のためなら」
「やーだもう、うまい事言って!」

そう言って軽く叩かれた肩が、しつこく熱を帯びているなんて知らないだろう。声を、感触を反芻している事など微塵も思いつかないだろう。

俺に向ける事は無い、あの笑顔を繰り返し頭の中で再生する。

これが恋とか愛とかいう感情なのか分からない。どうでも良い。ただ、あの笑顔が欲しかった。あの笑顔を向ける相手が、俺であって欲しかった。こんなに激しく、狂いそうなほど、求めた事は無い。どれだけ時間がかかってもいい。あの笑顔を手に入れたい―――彼女を、手に入れたい。


*


「……佐伯? 帰ってなかったの?」
「ああ、うん」
「部活あるだろうから、先に帰っていいって言ったのに」

男子と女子の人数が違うお陰で、出席番号が離れている彼女とも、日直を組む機会があった。日誌を書き終えたは、出してくるから先に帰っていいよ、と言ってくれたのだが、何となく帰る事が出来ず、教室で待っていた。

「遅かったね」
「そうなの、他の先生にも捕まっちゃって」

ふう、とため息をついて、彼女は席に着く。

「それは、災難だったね」
「でしょう」

帰り支度をするは急いでいるようだった。

「……カレシ?」

その問いに、は驚いたように手を止める。そして、即座に笑顔を咲かせた。

「うん……。一緒に帰る約束をしているの」

……ああ、まただ。
の事を想うと、耳鳴りが止まない。それはまるで海鳴のように、耳の奥で響いている。俺は必死で笑顔を作った。

「……そう、気をつけて」
「……有難う。佐伯も、部活頑張って」



その一ヵ月後、が陸上部のあの男と別れたと聞いた。



人のものだから欲しいと思ったのか、とも思っていたのだけど、彼女がフリーになったからと言って、この気持ちが薄れる事は無かった。むしろ、チャンスだと思った自分は本当に底意地が悪いと思う。人の不幸を喜んでいるようで気分は良くなかったけど、綺麗事を言う余裕すら無い。
……どうしても手に入れたいんだ。
彼女の笑顔も、声も手も、全て。
笑顔だけでいいと思っていたのに、気付くと彼女の全てが欲しかった。執着心が強い方だと思っていたけど、気持ちは時間を追う毎に増す一方だった。

そんな時だった。
傷心の彼女と、海岸で会ったのは。



***



の母親は、とよく似ていた。
渡しておいて貰おうと思っていたのだけど、上がるよう促されたので、その言葉に素直に甘えることにした。三日会っていないだけなのに、顔が見たかったから。ベッドに身を起こして座っていた彼女は、俺を見ると恥ずかしそうに笑う。

「……わざわざ、有難う」

かすれた声では言った。胸の奥が歓喜で震える。顔を見ただけで、声を聞いただけで、こんなにも嬉しいと思えるとは。

「具合はどう?」
「昨日まで、熱が下がらなかったんだけど、もう平気」
「声、変わってるけど」
「さっきまで、寝てたから」

額に手を伸ばすと、少し後ずさりながらも受け入れる。

「まだ、熱いよ」
「そ、そうかな? 昨日より楽なんだけど」
「本当に大丈夫? 明日は、来れそう?」
「うん。これ以上休んだら授業ついていけなくなっちゃうよ」

その答えに、ほっとする。エゴだと分かっているけど、来て欲しいと思っていた。

「なら、良かった」
「プリント、有難う。でも、部活は?」

は時計に目を走らせ、訊いた。

「休んだ」
「えっ……」
にも頼まれたしね」
に? もうったら……。ごめんね、部活休ませちゃって」
「いいんだ、弱ってるを見たかったから」

は途端に咳き込む。パジャマ越しの背中を撫でると、下着を着けてない事が分かって僅かに狼狽えてしまった。顔を上げたは、潤んだ目で困ったように眉を寄せる。

「弱ってるって……、見たことあるでしょ」

海岸での事を言っているのだろう、俺は笑みを漏らす。

「うん。あれは結構参ってたよね」
「……佐伯って、優しいんだか酷いんだか、分からない」
「どんな姿も見ておきたいんだよ」
「……また、そういう……」

彼女は大仰にため息をついて見せた。うっすらと頬が赤いのは熱のせいばかりでは無いだろう。

「佐伯は、答えに困る事ばっかり言う……」

その答えに忍び笑いを漏らし、の頬に手を伸ばす。

「それよりさ、」

は、困った顔のまま俺の手を受け入れる。

「なに?」
「いい加減、俺のこと、名前で呼ばない?」
「え! だ、だって、その、緊張するって言うか……ね?」

顔を近づけると、は後ずさった。

「う、うつるよ、」
「いいよ。うつして」

何か言いかけたの柔らかいくちびるに、くちづけた。

あの時から消えない耳鳴りは今も耳の奥で響いている。細く深く、途絶える事を知らないような海鳴りのように。昔は、海鳴りを聞いて台風の予知をしていたという。あの時聞いた耳鳴りは、予兆だったのだろうか。

「ちょ、もう、本当にうつるってば」

何度もくちづけた後、は身を捩って俺の唇を避ける。

「だからうつしていいって言ってるのに」
「そんな。佐伯を、休ませるわけにいかないよ……」
「……分かった。名前で呼んだら、今日は止める」
「今日はって……ずるい……」

くちびるを僅かに離し、見つめていると、目を伏せたはため息をついた後、口を開いた。

「こ、虎次郎……」

普段とは違うかすれた声で呼ばれた俺の名前は矢のように胸に刺さる。困ったように俺を見上げる表情に堪らなくなった。

「……よく出来ました」

そう言ってまたくちづけると、は顔を真っ赤にして俺をぽかりと叩く。

「止めるって言ったじゃない!」

笑い声を上げながら、俺は口を開いた。

「そんな顔したら、無理に決まってるだろ?」
「だろ、じゃないよ、もう……」


胸に吹き荒れる嵐は、未だ収まりそうに無い。


('05.10.1)








サエさんお誕生日おめでとう! ということで(誕生日関係ない内容ですが)。
サエさんドリ「潮騒」の後に「夕凪」を書いたらどうしても過去編が書きたくなったのでした。サエさん一人称、初めて書いたけど楽しかったです。