「……恋をしている状態というのは異常だと思ってるから」

夕焼けが染める教室で呟いた科白に、柳はシャーペンを動かす手を止め顔を上げた。





あ い こ と ば










「……なかなかに興味深い意見だな」

その反応に気を良くして続ける。

「だって恋をしていない方が正常よ。恋をするとその人のことで頭が一杯になって色々手につかなくなるでしょう?」
「まあ、そういう側面もあるが、恋をすることによってやる気が出たり幸福感を得ることもあるだろう?」

粛々と日直日誌を埋めつつ柳は返した。柳の口から零れ落ちると恋という単語も清麗なもののように聴こえる。その美しい手蹟を見ながら私はため息をついた。内容も字も、私が書くより整然としている。

「……それだって通常ではないんだから、正常ではないわ」
「正常でないならば異常だ、と言いたい訳だな」

再び顔を上げた柳は微笑んでいた。このひとは何時も薄く笑みを浮かべている。柳が慌てたり取り乱したりするところを目にしたことは無かった。彼の周りだけ時間の流れが違うみたいだ。

「単純なようだが、複雑な思考体系だ」
「……面倒臭い、とはっきり言ってくれて良いわよ」

そうは思わない、と柳はシャーペンをペンケースに仕舞いながら言った。

「ただ興味深いだけだ」
「……そう?」

訝るような私の視線に、柳は唇の端を上げる。そして付け加えた。

「面白い、でも可だ」





柳蓮二と初めて話したのは図書館で資料を探していた時のことだ。古文の課題で訳の参考になる本を探していたのだが、全集は何種類もあってどれを見ていいか途方に暮れていた。

「……頭注と全訳がついているのはこれだ。脚注だけで良いならこちらだな」
「……え?」

流暢な説明に振り向くと、そこに立っていたのはクラスメイトの柳だった。

「コンパクトという点ではこの文庫もいいだろう。ただしこれも全訳が載っている。参考にする位に止めておいた方が自分のためにはなるな」

同じクラスではあるものの、話したのはその時がほぼ初めてで目を瞬かせていると柳は首を傾げる。

「古文の課題だろう? 余計な節介だったか?」
「……ううん、助かった」





それ以来、話すようになった。柳は、強豪と言われるテニス部で活躍しているというのに成績も良く、おまけに読書家で、文武両道を地で行くような人である。

彼までは行かないだろうが私も本を読むのが好きなので、柳とは話が合った。何しろよく読んでいる人なので色々薦めて貰ったし、話について行きたくて、今まで読んだことも無いような本も読んだ。彼に比べると全然本を読んでないし、知らないことが多くて、自分の無知に落ち込んだりしたのだけど、そんな私を柳は馬鹿にしたりしなかった。同い年とは思えない寛容さで、様々なことを教えてくれる。そしてただ教えてくれるだけでなく、私の読むような本にも興味を持ってくれて、私が教えることもあった。こだわりが無い訳じゃないけど、自分の意見に凝り固まったりするところのない柔軟さ、偉ぶるところのない柳の態度は好ましく、いつしか私は“正常”じゃなくなっていた。







「柳……あ、ごめんなさい、邪魔をして」

柳は部活に行くまでの僅かな時間を図書館で過ごしている。それに合わせて、私も本を借りに行くのは習慣のようになっていた。その日も何時ものように図書館に行くと、柳は一人では無かった。

「いえ、話はもう済みましたから」

柳生くんは穏やかに笑って答える。柳と同じテニス部の彼は、紳士と呼ばれているらしかった。

「むしろ邪魔をしたのはこちらの方です、さん」
「そんな、」
「では柳くん、後程」
「ああ」

柳生くんは、私にも微笑んで一礼して去っていく。嫌みや気障に感じない程の振る舞いに、さすが紳士、とぼんやりと見送っていると、くく、と柳は咽喉の奥で笑った。

「柳?」
「……あれは柳生ではないぞ」
「え、なに言ってるの」
「あれは仁王だ」
「っ?!」

図書館という場所柄、叫びそうになったのを堪えると、柳は手元の本を閉じて続ける。

「恐らく偵察に来たのだろう」
「偵察って……探られるようなことが有るの」
「確認、かもしれないな」
「……意味が分からないわ……」

柳の言葉の意味も、仁王くんか柳生くんか、どちらか私には判らない彼の行動も。大体どうして仁王くんが柳生くんの格好をしているのだろう。

「まあ詐欺師の考えていることは俺にもよく分からない」
「詐欺師……」
「仁王の通り名だ」

では紳士ではなく詐欺師だったという訳か。その思い付きが何だか可笑しくてつい笑ってしまう。そんな私を見て柳も小さく笑った。

「それより、どうした?」
「あ、そうだった。この前教えてくれた本、面白かった。この作家さんの、他のでお薦めある?」

柳は軽く頷いて立ち上がる。見上げる程背の高い彼について行くと、柳はその作家の本を書架から取り出しページを捲った。その仕種に胸の奥がぎゅうと痛む。長い指は細く骨ばっていて、丸っこい私の手とは全然違った。

「お薦め、かは分からないが、俺が好きなのはこの短編だ」
「有難う、読んでみる」

何気無い風を装って受け取ったけど、鼓動は速くて私はこっそりとため息をつく。全く“正常”ではない、と。







図書館の閲覧机はほとんど埋まっていたので書架の端の方に置いてある椅子に腰かけ先程借りた本を開いた。ここ数日、柳と言葉を交わしていない。クラスメイトだから毎日顔を合わせるが、生徒会の方が忙しいらしく、図書館で柳の姿を見ることは無かった。こんなものなのだ、と分かりきっていたことを改めて確認する。

付き合っている訳でもないのだから、どちらかのタイミングがずれれば話すことも無い。“異常”な感情を抱いているのは私だけで、柳は相手をしてくれているだけなのだと。

開いた本を辿っても内容が入ってこなかった。寂しい、とか、話したい、とか言葉にすれば単純な気持ちは積もり積もって両胸の間を痛ませる。柳と居るとそうなってしまうのに、乞うように柳の姿を探した。話せるだけで嬉しかった筈なのに、もっと、と欲張りになってきてしまった。“正常”だった頃の私をもう思い出せない。どうやって放課後を過ごしていた?

「……?」

その声に勢い良く顔を上げる。そこには柳が心配そうに顔を覗き込んでいた。

「柳……部活は、」

既に部活が始まっている時間だ。柳は軽く頷く。

「今日は休みになったんだ」
「そう……」

膝の上の本を閉じると、柳は珍しく眉を寄せた。

「どうした、具合でも悪いのか」
「具合が悪い訳じゃ……ううん、そうかも」
「うん?」

唇が、声が震えそうだったけど、吐き出すように言葉を紡いだ。

「……柳のせいで、既に私は常軌を逸しかけてる」

勇気を振り絞って告げた言葉に柳は一瞬沈黙した。

「……今までのお前の言動とその発言からだと俺を好きだと言っているように聴こえるが?」
「意図が、伝わって何よりだわ」

がくがくと震えそうだったけど手を握り込んで柳を見据える。背の高い彼を、座ったまま見上げるのは首が痛かった。柳はそんな私を見て忍び笑いを洩らす。

「伝わるだけでいいのか?」
「……期待しないようにしているの」
「ほう」

膝が笑う、というのはこういうことを言うのかと思った。呼吸が覚束無かったけれど、必死で言葉を継ぐ。

「私は伝えたかっただけ。……ううん、だけ、というのは嘘かな。でも伝えられたことは……満足してる」

同じ想いを返して欲しい、と思う。でもそれが欲張りだって分かっていた。柳にとって私はただの、他より多少話すだけのクラスメイトでしかないのだから。気持ちを隠して口をつぐんでいれば、今まで通り賢しげなことを話して柳に微笑ましく思われていたことだろう。だが感情は溢れた。溢れてしまった。嵩を増した想いは決壊するきっかけをずっと探していた。自分でも制御出来ないくらいに。

「……帰ろうか」

永遠に続いてしまうのかと思った沈黙は、柳の声で破られる。途端に押し寄せる安堵と落胆にこのまま倒れこんでしまいたかった。

「うん……」





図書館を出ると外はすっかり暗くなっていた。冷たく澄んだ空気にマフラーを巻き直し顔を上げると月が輝いている。欠けのない月は丸くなるような兎の形までもはっきりと分かった。

「……月が綺麗ですね」
「え?」

柳は小さく笑う。

「さっきの返事だ」

何度か目を瞬かせると柳は笑みを深くする。訳が分からなくて月を見上げたまま柳の少し後ろを歩いていると、ふいに思い出した。『I love you』を、貴方を愛しています、と訳した学生に、「そんなものは『月が綺麗ですね』くらいでいいんだ」と言ったという夏目漱石のエピソードは有名だ。
……それって、
途端に頬が熱くなる。返して貰えると思っていなかった想いに返事が貰えて、胸が一杯になった。感情が激流のように渦巻いて、悲しくもないのに涙が滲みそうになる。
……ああ、きっとこんな気持ちだ、とあの作家は訳したんだ。
ちいさく息を吸って、零れるままに呟いた。

「……わたし、死んでもいいわ……」
「二葉亭四迷か」

頷くと柳は、やはりお前は興味深い、と笑った。



('12.2.18)



理屈っぽいヒロインですね……。「月が綺麗ですね」のエピソードを聞いて思いついたのは柳の話で、ようやく形に出来ました。返事は、書いてますが二葉亭四迷の訳文から。ロシアの小説を訳する時に、告白された女性の返事として訳した文だそうです。
そして仁王さんが変装して登場するのは愛ゆえです(笑)。参謀の行動が怪しい、と偵察、っていうか面白がって観に行った的な行動かと。