溶けていく声











その声は、教室に入った瞬間耳に飛び込んできた。けして大きかったからとか不快に感じたからではない。むしろ小声に近いその声はするりと耳に馴染んだ。声は今年初めて同じクラスになったのもの。僕はその口元を見つめた。教室の端と端程に離れているのに唇から零れた言葉は明瞭に届く。
……合唱とかをやってる人かな。
不思議な響きの声は休み時間の喧騒の中でもよく通った。微かに感じる居心地の悪さ。分かりそうで分からない、思い出せそうで思い出せないこの感じは。

「なー、不二ー」
「……ん?」

英二に話し掛けられて僕はその時感じた違和感を忘れてしまった。



* * *



午後の国語の授業は眠りを誘う。特に教科書の朗読などは最たるものだ。クラスメイトの単調な声は目蓋を重くしていく。漂う空気は気怠く、意識を攫われそうになりながら、僕は次の単元の作品を読んでいた。

「はい、そこまで。じゃあ続きを……
「はい」

の声で途端に目が冴えた。
息を詰めて彼女が立ち上がるのを見守る。スカートを押さえ、立ち上がった彼女は机の上の教科書を手に取った。の声が教室に響き渡る。
が朗読する箇所を声を出さずなぞってみた。イントネーションがおかしい訳でも無い。どうしての声だけがこんなにも耳を奪うのだろう。殊更高い訳でも低い訳でもない、メゾソプラノの声。僕は教科書から顔を上げ、朗読するを見つめた。

「はい、そこまででいいよ」

彼女はこくり、と頷いて席に着いた。



* * *



「ごめんなさい、本を取らせて欲しいんだけど」

その声に本から顔を上げるとが立っていた。思わずまじまじと顔を見るとは首を傾げる。

「あの、不二くん?」

……自分の名前がこんなに深く耳に染みるなんて。
その声は、耳の奥が痺れるみたいに響いて聞こえた。

「……あ、ごめん。邪魔してたね」
「ううん。こちらこそ読書の邪魔しちゃって」

は僕の目の前の書架から本を一冊抜き取った。細い指は目を閉じても目蓋の裏に焼き付く。ストロボの残像みたいに。

って、」
「え?」
「部活、何やってるの」

ページを繰っていたは何度か瞬きを繰り返す。

「何も。……どうして?」

それに答えず微笑むと、も首を傾げて微笑んだ。静寂の中をページを捲る音だけが支配する。肩から零れ落ちた髪が本に目を落とすの表情を隠している。

「……あ、」

チャイムの音には顔を上げた。心地好い声は空気にも溶けていく。



* * *



の声って不思議だよね」

そう言うと英二は目を瞠り、丁度黒板を消しているを見遣った。彼女は今日、日直なのだ。

「……そう?」
「うん、変な声って訳じゃ無いけど」
「じゃ、どんな声」
「よく通るっていうか澄んでるっていうか」

ニュアンスが違うなあと思いながら言葉を紡ぐ。伝えたい事を伝えたいままに伝えられなくて歯痒い。
すとん、と胸の奥に填まるようにの声は届く。やわらかな陽光、透き通る水。そんな風に空気を震わせ届く声は静かな旋律のようだった。

「何、不二、の事気になんの」

英二の言葉に僕は目を見開く。
……考えもしなかった。

「ああ、……そうなのかな」
「何ソレ」

英二は笑った。

「不二にだけ特別に聞こえるんならそうなんじゃない?」

僕は教室を見渡した。休み時間の喧騒の中、視線が辿り着くのはの許。席に戻って友人と話していたは声を立てて笑った。やわらかな声は今も耳の奥に溶けていく。

「特別、ねえ」



* * *



「……あれ、、何してるの」
「日誌をつけてたの。不二くんこそ部活は?」

微笑み、口にした言葉はやはり不思議な響きで胸に落ちる。

「今から行くよ。忘れ物しちゃって」

僕はロッカーに置き忘れていたタオルを見せる。

「そう。頑張ってね」

そう言っては日誌に目を落とす。
細い指だなあ、とシャーペンを握る手を見つめた。こうして見ると、大きい訳でもない僕より小さい。肩幅も狭いし、袖口から覗く手首だって細い。

の声ってさ、」

気付けば、口にしていた。

「え?」

彼女は目を丸くして僕を見る。

「声?」

僕は少し後悔しながら言葉を続けた。

「不思議だよね」

は、ふ、と笑みを洩らす。

「そんな事言われたの、初めて」

は笑顔のままシャーペンを走らせ日誌を閉じた。

「最初、合唱か何かしてるのかと思った」
「ピアノは習っているけど」

日誌を胸に抱きは首を傾げる。

「ねえ、不思議ってどんな風に? 変な声って事?」

違うよ、と首を横に振った。

「耳に、」

言葉を切って僕は笑う。

「心地好い感じ」
「え」

彼女はさっと頬を紅潮させた。

「すうっと溶けていくんだ」

は僕から目を逸らし俯いてしまう。

「……な、何か照れるんですけど」
「本当だよ。……でもそれは僕にだけみたい」
「え?」

呟きはに届く事無く霧散していく。

始まりは声だったけど、何時しかの事が気になっていた。声に引かれ、何気ない仕草やふと微笑むのを見る度に僕の胸は甘く痛んだ。彼女の声も笑顔も、胸に柔らかく溶けていくのに、何故か。
―――そう、あの時から僕は君に恋をしていたんだ。

「だからもっと聴かせてよ」
「ええ?」

は困ったように眉を寄せますます顔を赤くする。

「そんな事、言われても」
「そうだね」

慌てたように言う様子に忍び笑いを洩らした。
君の事がもっと知りたい。その声で、みんなが知る事の出来る以上の君の事を話して欲しい。

「……あ、あの、」
「ん?」
「部活、行かなくていいの?」
「僕が居ると迷惑?」

は首が取れてしまうんじゃないかと思うほど首を横に振った。

「違うよ、そうじゃなくて、」
「そうじゃなくて?」
「……不二くん、面白がってるでしょう」
「分かる?」
「やっぱり」

はため息をついた。

「じゃあ行こうかな。遅れると、うるさいしね」

そう言うとは安堵したように笑う。

「そこまでほっとされると傷つくなあ」
「だ、だって不二くんが」
「うん。意地悪したいんだ」

はぽかんと口を開けて僕を見つめた。

「よく言うでしょ、好きな子ほど苛めたくなるって」

見た事の無かった表情を見る事が出来て、僕は自然と微笑む。

「……じゃあ、またね



空は、すっかりオレンジ色に染められていた。僕は急ぐ事も無くテニスコートに歩を進める。の声を、表情を思い出すと笑みが浮かんだ。少しずつでもいい、君の心に入り込んで何時か攫ってしまいたい。僕が攫われてしまった分を、それ以上を取り返すように。自覚した恋心は胸の奥で身動ぎ、存在を主張する。くすぐったいようなそれは、僕を逸らせる。

「……焦らないけどね」

僕は自分に言い聞かせるようにひとりごちた。


('04.12.17)






青学では不二が好きです。
本当はもっと黒い人だと思っているんですが!(サエさんと並んで)