解く指先












合唱コンクールの時期になると、各クラスで程度の違いはあるものの、練習に熱が入るから、校舎全体がメロディに包まれているかのようだった。僕のクラスも、昼休みと放課後は必ず練習していた。帰る前に歌う歌は帰宅してからも頭の中を駆け巡ってなかなか困る。

「今日の放課後は音楽室だから! サボらないで集まってね!」

女子の学級委員の声に、クラスメイトはうんざりした声を上げて見せた。でも、文句をつけながらも、きっと音楽室に集うのだろう。うちのクラスは、熱狂的では無いにしろまとまっている方なので。

「今日は教室じゃないんだなー」

英二は僕のノートを写す手を止め言う。

「そうだね、今日は伴奏有りなんだ」

うちのクラスの伴奏は、だった。
……教室だったら彼女の声を聴けたのに。
伴奏付きで練習出来るのは、決められた日だけだった。生徒数の多い青学では仕方の無い事だろう。小学校のように各教室にオルガンだのが置いてある訳でも無いので、当然教室で練習する時はアカペラで歌う事になる。その時は、伴奏の彼女も一緒に歌っていた。

「ちょっと残念」
「は、何が?」

英二の呟きに曖昧に笑って見せた。



* * *



「じゃあ、今日はここまで。お疲れー」

男子の学級委員は楽譜を挟んだファイルを閉じた。それをきっかけに張り詰めていた空気が緩む。思い思いに話し、音楽室を出て行くクラスメイトの声は幾重にも重なって聞こえた。

「不二、帰ろうぜー」

僕は英二の言葉に頷きながら、ピアノの前に座り、友達と話しているを窺った。

あの時。放課後の教室でと話してからも彼女との関係に変わりは無かった。一つ、変わった事があるとすれば、の態度だろうか。僕と目が合ったりすると、顔を赤くし、慌てたように目を逸らす。意識してくれてはいるみたいだけど話す機会もなかなか無く、どうにか距離を縮めたいと思っていても叶わずに居た。


「不二、帰らねえの?」
「……帰る」

もっと声を聴いていたかったのだけど、ため息をついて僕も音楽室を出た。



教室に戻り、帰り支度を整える。部活を引退してからは、真っ直ぐ帰宅していた。このまま高等部に上がるつもりでいるのだが、試験が無い訳でも無いのだ。よっぽどおかしな事をしなければ大丈夫だろうけど、勉強を怠るような事は出来なかった。

昇降口に向かいながら、英二はぼやく。

「あーあ、部活が無いって変な感じだよなー」
「そうだね。でもすぐに嫌になる位、部活に明け暮れるようになるんだよ」

笑いながら返すと英二も笑った。

「そうだな。……楽しみだよな」

その時、ピアノの音が聞こえた気がして歩みを止めた。

「……不二?」

先に階段を降りていた英二は既に踊り場に立って僕を見上げている。

「どうしたんだよ?」
「……ごめん、英二。僕、用事を思い出した」
「え?」
「先に帰ってくれる? 悪いけど」

そう言って踵を返す。後ろから、不二、と英二の叫び声がしたけど、僕は音楽室へと駆け出していた。





音楽室からは、ピアノの音と共にの声が零れていた。僕は微かに息を呑み、中を窺う。

軽やかに鍵盤を辿る指から生まれた旋律に乗って柔らかなの声が耳に響く。透明な声は、するすると僕を支配する。
……ローレライみたいだ。
ふいにドイツの伝説の妖女の名が浮かぶ。動く事も出来ずに耳を傾けていると、音が途切れ、辺りは静寂に包まれた。

「ふ、不二くん?」

は僕に気付いてしまったようで目を丸くしている。

「……気付かれちゃったか」
「聴いてたの?」

旋律と共に無くても、の声は僕の耳に甘い響きを落とす。ピアノの前に座る彼女に近づいて言った。

「うん。ごめんね、邪魔して」
「邪魔なんて思わないけど……恥ずかしいな」

は照れたように笑って続ける。

「ピアノならともかく、歌には自信無いもの」

その様子に笑みが漏れた。

「……上手下手じゃ、無いんだけど」
「え?」

僕の呟きには不思議そうな顔をする。

「もう練習しないの?」
「……どうして?」

訝るように落とされた声に、迷う事無く答えた。

の声が聴きたいんだ」

は、鍵盤に下ろしかけた指を止め俯く。

「……不二くんは、私の声が好きなのね」

顔を上げたは寂しげに笑って呟いた。その表情は自惚れるに十分の確信を与えてくれるもので。

「……それは違うよ。君が、好きなんだ」
「えっ……」

彼女は頬を紅潮させ言葉を失くす。僕の忍び笑いが他に誰も居ない音楽室に響いた。

「この前言っただろう?」
「そう、だけど……でも、」
「信じてなかった?」
「……そうじゃなくて、その……」

は困ったようにスカートのプリーツに触れている。

「……迷惑だった?」
「そんな事無い!」

強く否定した自分に驚いたのか、は口を噤み、しまった、とでも言いそうな表情を浮かべた。堪えきれずにふき出すと、彼女は恨めしげに僕を見上げる。

「駄目だよ、。そんな顔すると期待しちゃうよ?」
「そんな顔って、なに……」

かすれた声で彼女は問いかける。
……逃げない事も、自惚れる原因だって分かってないんだろうな。

「僕と同じ気持ちなんじゃないかって、期待させる顔」
「……え」

彼女は身動ぎ一つせず、顔を赤くした。その指に触れると、身体を震わせる。

「違う?」
「……分からない……でも、」

触れた指は細くて、たやすく壊してしまえそうだった。短く切り揃えられた爪は小さな貝殻のよう。は顔を上げ、僕の手を振り払う事も無く言う。

「不二くんの声を聞くと、どきどきするようになった」
「え、」

耳を奪うその声で、触れた指先から伝わる体温で、僕の心はまた、上手に駄目にされて。
……やっぱり、敵わないか。
今度は僕が搦め捕ろうと思っていたのに、攫おうと思っていたのに結局藻掻いただけだった。口惜しいけど、心地良い敗北を味わいながら僕は彼女の手を握り立ち上がらせる。

「……帰ろうか、
「あ、うん……」
「鞄は?」
「教室……、あの、不二くん?」
「何?」
「て、手が……」

繋がったままの手と僕を見比べて、は言葉を途切れさせた。

「……ああ、」

僕は微笑んで見せる。

「駄目?」
「……もしかして、また面白がってるの?」
「ひどいなあ、と手を繋いでいたいだけなのに」

今度こそ、彼女は言葉を失くしてしまった。僕は浮かんでくる笑みをこっそり噛み殺す。

初めて口にした君の名前は、僕に響くみたいに君に響くだろうか?


('05.11.6)








仲良くして頂いてた方のお誕生日祝いに書いたものです(その方と言えば不二)。
お祝いなのに続きものってどうなん……? とは思ったのですが、祝う気持ちだけは一杯込めたつもりです。おめでとうございました!