「あっ……ごめ、」

謝罪の言葉は途中で止まった。
















「乾!」
「……ああ、。委員会の当番だったのか」
「うん」

普通ならば疑問符を付けそうなものだけど、相手は乾だ。図書委員会の当番日程くらい知ってるのだろう。こうした脈絡の無い会話にもだいぶ慣れた。

「乾はまたあの妙なドリンク作ってきたの?」
「また、とは随分だな」
「だって越前くんが言うくらいだから」

さりげなく隣に並んでも乾は何も言わない。眼鏡のせいだけじゃなく、身長の高い彼の表情は簡単に窺えないけど、手を伸ばせば触れられる、この距離を歩けるだけで嬉しかった。



乾貞治は全国大会にまで出場する、青学テニス部のレギュラーなのだけど、表情の読み取り難い、ぶ厚いレンズの黒縁眼鏡をかけているせいで損をしていると思う。身長は高いし、成績だって良いけど、その言動と行動ですっかり変人扱いを受けていた。確かにデータに固執したり、分析が趣味みたいなところはあるけれど、でも。
……こんなに面白くて、おまけに恰好いい人なのになあ。



*



乾の素顔を、偶然見てしまったことがある。日直でペアを組んでいた時のことだ。

「悪いな、

乾は日誌に視線を落としたまま呟いた。

「それはこっちのセリフだよ。結局、日誌は全部書いて貰っちゃって」

乾の手の中のシャープペンシルは澱み無く動かされている。

「提出して貰えるだけで有り難いよ」
「それは任せておいて」

私が請け負うのと同時に、ぴたり、と乾の手が止まった。そして日誌を閉じ、シャープペンシルをペンケースに仕舞う。予定調和されたような動きを目にしながら日誌に手を伸ばした。

「じゃ、持って行くね」
「ああ、頼むよ」

その時だった。お互いのタイミングが合わなかったのか、勢いが良過ぎたのか、私が取り上げた日誌の端が乾の眼鏡を弾いてしまったのだ。かろうじて、眼鏡は机の上に落ちる。

「あっ……ごめ、」

その後を続けることは出来なかった。
……乾って、こんな顔してたんだ。
漫画やドラマなんかでよくある、眼鏡を取ったら実は美人でした、なんて、そうそう無いと思っていた。でも、眼鏡をかけていない乾は、何て言うか、とても恰好良かった。端正な顔立ちにすっかり見惚れてしまっていると、乾は表情を変えることも無く、眼鏡をかける。

「……あ! わ、ご、ごめんなさい! 大丈夫!?」
「うん」

乾は頷いて立ち上がった。

「じゃ、お先に」
「……うん、部活頑張って」

乾は微かに笑って教室を出て行く。私は日誌を胸に抱えたまま、馬鹿みたいに立ち尽くしていた。
……びっくり、した。
さっきから心臓の鼓動が速い。何度か深呼吸を繰り返しても落ち着いてくれなかった。



からは、よく乾と話せるね、なんて言われていたけど、乾と話すのは面白かった。難解な言い回しをするし、妙に細かいことまで言い募ったりするけど、意味が分からない時は訊けば納得するまで教えてくれるし、どんな些細な質問でも軽んじることは無いから、乾と話す時間はとても楽しいものだったのだ。
でも、そこには恋愛感情は無かった。無かった筈、だった。それなのに今、こんなに動悸がする。
……恰好いいのを知ったからって、不純過ぎじゃない?
そう思ったのに、それからの私ときたら乾から視線を逸らせなくなってしまった。不純だろうが何だろうが、私の視線は乾の元に辿り着くのだ。まるで吸い寄せられたように。呼吸するように自然に。

幸いなことに、そんな私の想いは乾には気付かれていないようだった。今まで通り、くだらない私の質問に答えてくれたり、私が気にも留めないようなことを掘り下げて話してくれたりする。

乾の傍は居心地が良かった。無理したり、背伸びしたり、自分を取り繕ったりしなくてもいいのは勿論だけど、乾も、無理して私に付き合ってくれてる訳では無さそうだったから。それは、不思議な感覚だった。好きだけど痛くも熱くもないし、かと言ってどきどきしない訳でも無い。ふわふわ漂う甘過ぎない空気は緩く私を包んでいる。何となく、乾の機嫌が良いのか悪いのか分かったし、乾もそうだったと思う。この曖昧な感覚を、言葉にして乾に確認したことは無いけれど、乾もそう感じてくれてたらいいな、と思う。でもこんな風に感じているのは私だけかもしれないし、単なるクラスメイトに過ぎない、ってことは自分でも分かってるから、訊けずにいた。



*



「乾は損をしているよね」
「そうでもないと思うけど」
「そうでもあるんです。……勿体無いなあ」
「勿体無い?」

乾は興味深そうに繰り返した。

「そうだよ。こんなに面白いのに」
「……それは、可笑しいという意味で?」

困ったような声音に慌てて続ける。

「違う違う。ええと、私の知らないことを知っているし、教えてくれたりするでしょう? 乾のおかげで興味が湧いたり楽しくなったりしたこと、たくさんあるもの」
「……ふうん。でも俺は損をしているとは思ってないよ」
「ええ?」

乾は微かに笑みを浮かべた。

「分かって欲しい人に分かって貰えればいいから」
「そりゃそうだけど、」
にそう思って貰えてるみたいだから、いいんだ」

心臓直撃なセリフも、乾にとっては大したことじゃないんだろう。その証拠に私の顔は熱くなったのに、乾はいつも通りだ。
……いや、違う。

「乾、」
「何だい?」
「耳、赤いよ……?」

私の指摘に、乾は立ち止まる。すぐにまた歩き出したけど、乾は大きく息を吐いた。

だって、顔が赤いみたいだけど?」
「だって乾が、」
「俺が?」
「……意地悪だなあ」

思わず呟くと、乾は肩を揺らす。

「いいね、その意地悪って響き」
「何処が?」
「うーん、うまく言えないんだけど」
「珍しい、乾が言い淀むなんて」

仕返しとばかりに返すと、く、と乾は咽喉の奥で笑った。

「結構多いよ。特にの前ではね」
「そ……そう、ですか」

仕返しの筈だったのに、きっちり打ち返されてしまっては何も言えない。乾の言葉の意味を吟味していると乾は再び立ち止まった。突然なに、と顔を上げると、その信号から帰路が分かれる、という地点に着いていた。そんなことにも気付かないくらい、思考の迷路にはまりこんでしまっていたのだ。信号が青に変わる。

「じゃ」

乾はそこを渡るけど私は渡らないで右折しなければならない。名残惜しかったけど手を振った。

「あ……うん。また明日」

私の言葉に乾ははにかんだように笑い、片手を上げる。

「……ああ、また明日」

胸に飛来する不思議な感覚を、明日になったら言葉にしてみようか。
乾は、乾も同じように感じてくれてたらいいのだけど。


('08.5.6)










マイハニーC嬢に捧げます、初乾。
タイトルも内容も、Perfumeの「wonder2」という歌からです。
以下、蛇足。
C嬢に頂いた乾リクと、この曲があわさってこんな話が書き上がりました(先日のライヴのラストの曲がこれでどきどき。これは更新せな! と思いました・笑)。一枚目のアルバムだと、一曲目とこの曲が特に好きです。