日吉の言葉の発音はとても綺麗だと思う。
たとえそれが罵詈雑言でも。
音 叉
「先輩、これ司書の先生から預かったんですが」
「何? ……ああ、分かった。有難う」
日吉から渡されたプリントにざっと目を通し、礼を述べても日吉は表情を変えなかった。
一つ年下のこの後輩とは委員会で知り合った。少し長めの前髪で隠れているけど、整った顔立ちをしている。この年頃の男の子にしてはやたらと姿勢が良くて、どんな人波の中に居ても見つけることが出来た。
日吉は、姿勢だけでなく礼儀も正しかった。よく話すようになってからも、くだけた口調で会話を交わすことは無い。馴れ馴れしいのは嫌いだから、それはとても心地好い。可愛い、と言うには、少しばかり可愛げの無い子だけど、可愛い後輩だった。
***
「先輩は彼氏とか居るんですか」
日吉は画面から目を離さずに言った。司書の先生から頼まれて、蔵書目録の修正を行っていた時の事だ。
放課後、本を借りに図書館に来たら司書の先生に捕まってしまった。図書委員ではあるものの、役職に就いている訳ではないのだが、司書の先生と懇意にしていることと、今日は帰っても別段やることがある訳でもないことから軽く引き受け司書室に入ってみると、同じように捕まったらしい日吉が先に作業をしていた、という訳だ。
「珍しいね、日吉がそういうことを訊くなんて」
日吉はちょっとだけ眉根を寄せた。不本意だ、とでも言うように。
「……先輩達が、噂してたんです」
「先輩達?」
「主に忍足先輩と向日先輩ですけど」
クラスメイト達の顔が浮かぶ。あいつらだったら噂してそうなことだ。
「それで真偽を質すために?」
「……そうです」
私はキィボードを叩きながらため息をついた。いつもだったらそんなことを言われても切って捨てそうなものなのに。それなりに敬意は払っているようだが、忍足や向日のことを苦手としているように見える日吉が、二人の噂話を真に受けてこういったことを口にするのは珍しい。
「居ないよ。何、賭けでもしているの?」
「してません、けど……」
「けど?」
日吉は私の方を向いた。目だけそちらに向ける。
「俺も、気になったので」
「……そう」
それからしばらくはキィボードを叩く音だけが司書室に響いた。司書の先生は臨時の職員会議に出ているので二人きりの。
ドアを隔てたカウンターには今日の当番の生徒が居る筈だが、ことりとも音が聞こえてこない。
「俺の分、終わりました」
「ああ、そう」
私が頼まれた分はまだ残っている。返事をしただけで作業を続けていると、日吉はノートパソコンを閉じて立ち上がった。
「先輩は、」
手を止めて日吉を見上げると、日吉は私を見下ろしていた。
「好きな人とか居るんですか」
「……さっきの続き?」
「そう思ってもらっても構いません」
「居ない」
「じゃあ、好きなタイプは」
日吉の口から好きなタイプとかいう単語が出てくるとは思わなかった。妙に可笑しくて、それを堪えながら返す。
「……今日はやけに絡むね」
「そうですね」
いつも通りの、無表情のまま日吉は言った。私は画面に視線を戻して答える。
「嫌いなタイプならあるよ。賢しらな子は、嫌い」
そうですか、と日吉は呟いた。
***
書架の直ぐ横の椅子で本を読んでいると手元が翳ったので顔を上げる。そこには日吉が立っていた。日吉は私をちらりと見下ろした後、直ぐに視線を戻す。
「この前、賢しらな子が嫌いだと言ったでしょう」
「……言ったね」
「何故ですか」
思わず出た笑いは、ひどく自嘲的なものだった。
「面倒だからよ。そういう人間に、主導権を握られるのも我慢がならない」
「思い通りになるお人形がいい?」
「……そうね」
面倒だったので頷くと、日吉は僅かに唇の両端を上げた。
「……それって、最悪じゃないですか」
とても、とても綺麗な発音だったので最悪と言われたことも忘れて彼を見つめ返す。日吉はもう、いつも通りの無表情に戻っていた。私は、開いていた頁に再び目を落としながら頷く。
「そうね」
「怒らないんですか」
「怒らせるようなことを言った覚えがあるの?」
「……そうですね」
顔を上げると、日吉はちょっとだけ首を傾げた。見上げているせいか、細めた、涼しげな目許もはっきりと見て取れる。
「怒らせてみたかった、んでしょうね」
「推量?」
「ええ。自分でもよく分からないんですが」
まるで判じ物をされているようだ。何となく答は分かったのだけど。
「何を言いたいのか、分からないわ」
「そうですか」
手元の本を閉じ、立ち上がる。そろそろ昼休みが終わる。本を棚に戻していると、日吉はそれを黙って見ていた。
「……ああ、一つ言い忘れてた」
「何ですか?」
日吉を見上げ、微笑んで見せる。
「賢しらな子は嫌いだけど、賢い子は好きなんだよ」
日吉はせわしく瞬きをした後、笑った。初めて見る、笑顔だった。
「……それなら、そう思われるよう努力してみます」
努力する、ではなく、努力してみる、というのがいいなと思った。
「楽しみにしてるわ」
そう言い残し踵を返す。綺麗な発音をする日吉と、もう少し話していたい気もしたけど、何事も加減が大事だから。
日吉は予想通り、追いかけてきたりはしなかった。そういうところもまた、好ましい、と、まるで英文和訳のように思った。
('06.5.23)