彼女のことを思うだけで、胸の奥が震える。










振 動










彼女と初めて会ったのは図書委員会の席上でだった。向日先輩と忍足先輩のクラスの図書委員の彼女はつまらなさそうな顔をしていたが、表情とは裏腹に板書された内容を真面目に書き写している。
……妙な女。
それからしばらくは彼女のことなど思い出しもしなかった。



***



「すみません、予約の本が来たと連絡があったんですが」

ああ、この人か、と思った。カウンター当番だった昼休み、そこには、向日先輩と忍足先輩のクラスの図書委員が無愛想な顔をして立っていた。名前を知らなかったのでマニュアル通りのセリフを口にする。

「お名前を伺っても宜しいですか」
です」

早くも、遅くも無い喋り方。声も、聞き取り易い声ではあったけれど、殊更高いとか低いとか、特徴がある訳でもない。なのに、耳に残った。

カウンター下の予約本の中から彼女の名前が書かれた予約カードを挟んだ本を取り出すと、彼女は溢れ出る嬉しさを抑えられないみたいに、にっこりと笑った。子どものような、でも、子どもには無い、妙な色気を含んだ笑顔は、それまでの無愛想さを拭い去る劇的な変化だった。手を止めた俺に、彼女は利用カードを差し出す。

「お願いします」
「……あ、はい」

貸出処理をして本を手渡す頃にはその笑みは消え失せていた。彼女は僅かに会釈して図書館を出て行く。俺はその背中から、目を離せないでいた。


それから、先輩の姿をよく見かけるようになった。
いや、この表現は正しくないだろう。俺が、気に留めるようになったのだ。

先輩は取り立てて目立つ人ではない。でも、彼女が佇んでいるところだけ、薄明るく光って見えた。見逃してしまいそうな仄かな光に気付いてしまってから、目を逸らせない。気付くと、彼女を探している。一人で居ても、友人と居ても変わらないその空気に触れてみたい、と思う。



***



図書委員の仕事は、カウンター当番だけではない。図書館便りの発行や、読書会の運営、蔵書の整備・修繕など、意外とやることがある。俺の担当は整備・修繕で、閉架書庫の整理や、破損した本の修理だ。偶然にも、それは先輩と一緒の係だった。

「悪いわねえ」
「いいですよー。今日は暇だし」

司書の先生に答えた先輩は、俺をちらりと見る。

「でも彼は、部活とかあるんじゃないですか」
「あ、そっか。日吉君、テニス部は大丈夫なの」

先輩は先生の言葉にちょっと目を丸くする。気付くと口を開いていた。

「……何ですか」
「あ、いえ。テニス部なんだ?」
「……そうです」

ふうん、と彼女は頷く。その横顔には何の表情も浮かんでいなかった。

「先生、これ時間かかるんですか」
「三十分もあれば終わる作業だと思うけど」
「なら、構いません」
「そう? 助かるわ」

言い渡された作業は古い目録カードの整理だった。今はもう電算化されているから用は無いのだけど、すぐに処分する、という訳にもいかないらしい。先輩は黙々と作業を進める。

「日吉くん、だっけ」
「はい」
「テニス部なら、うちのクラスの忍足と向日の後輩なんだね」

そう言った時も、目は手元から離さなかった。細い指が目録カードを繰るのを見ながら頷く。

「そうですが?」

ぞんざいな口調で返しても彼女は気を悪くしたようには見えなかった。

「ふうん。テニス部って派手な人ばかりだと思っていたけど、君みたいな人も居るんだね」
「……先輩たちは、例外でしょう」
「そうね。でも君も、」

そこで言葉を切り俺を見つめた。目を細め、唇の両端を上げる。何処となく面白がっているような表情だった。

「ただものじゃない感じはするよ」



***



「最近、うちのクラスのと仲良いらしいな?」

忍足先輩は着替えながら言った。俺はシャツの釦を留めネクタイを首に回す。

あれから。
図書館で顔を合わせる度に話すようになり、先輩は俺の事を、日吉、と呼ぶようになった。俺の姿を目にすると、ほんの少し、顔を綻ばせてくれる。

「図書委員で、係が一緒なんです」
「それだけかー?」

既に着替え終えていた向日先輩は茶化すように笑った。

「お前にしたら珍しく女子と喋ってるじゃん」
「同じ係なんだから、多少は話しますよ」
「そりゃそうだけど。も人懐こい方じゃねーから、何か珍しいんだよな」

俺は沈黙を守ったままネクタイを締める。そういう人が、自分には気を許してくれているのだろうかと思うと何だか嬉しかった。

「そういやってさー、好きな奴とか居るのかな」
「何や急に」
「や、何かそういうのが想像出来ねえっていうかさ。日吉もだけど」

向日先輩は俺を見たけど俺は何も返さない。ここで反応したら、彼等の思う壺だからだ。忍足先輩は少し笑う。

「まあ、象牙の塔に住んどる、って感じはするなあ」

その表現は先輩に似合うと思った。浮いているわけでもないようなのに、何処か世間離れして見える。どんな集団の中に居ても、彼女は一人、静かにそこに存在していた。

「……お先に、失礼します」
「おー、じゃあな」
「お疲れさん」

俺は先輩達に軽く頭を下げ、部室を後にした。



帰途を辿りながら先輩のことを考えていた。それだけで胸の奥がちりちりと音を立てるような感覚を覚える。心が揺さぶられるのが分かる。

明日も整備の仕事を頼まれているのだが、先輩も来るだろうか。もし彼女が来たら、俺はきっと話しかけずには居られないだろうなと思った。


('06.6.26)