世界の輪郭をほどく。
絵が得意だったらこの空を描いてみたい、と思うような見事な夕焼けだった。
夏の蒸し暑さが嘘みたいに冷たくなった風が前髪を攫っていく。お行儀が悪いけど机に腰掛け眼鏡を外した。眼鏡を机に置くとことり、と音を立てる。紫、赤、オレンジとグラデーションが彩る空の端は藍色に染まりつつあって、いくつかの星が瞬いていた。深呼吸するかのように大きく息を吸い込むとあまい香りが鼻腔に残る。この時期ならば金木犀だろう。芳香剤のようだとは眉をひそめていたが、私は好きだった。
あまい空気の中、ぼんやりと空を眺めていると、背後でドアが開く。驚いたけど、ゆっくり振り返った。ドアに手をかけ、誰か佇んでいる。薄暗いのと、眼鏡を外していたせいで誰かは分からなかったけど、背の高さと服の色合いから男子だろうとは見当がついた。
「灯りも点けんと、何してんねん」
「……忍足くん?」
私と彼以外誰も居ない教室に特徴的なイントネーションの言葉が静かに落ちる。その声はまるで水滴が落ちて波紋を広げるように伝わってきた。知った人だったのに安堵して少し笑う。
「誰かと思った」
「何で……ああ、眼鏡外しとんのか」
「そう」
近寄ってきた忍足くんは私の顔を見て言う。こうして声を聞いても姿はぼやけているから、忍足くんだとはっきり言い切れないのだけど。
「何しとったん?」
「空を見てた」
「空?」
腰掛けていた机の、隣の机に腰掛けた忍足くんは不思議そうに空を見上げる。
「綺麗な夕焼けだったから」
「……はあ?」
怪訝そうな声にまた笑ってしまう。
「忍足くんは伊達眼鏡って本当?」
「何や、突然……まあ、そうやけど」
「じゃあ分からないだろうなあ。眼鏡無しだと世界はぼやけて見えるんだよ」
眼鏡を外すと、途端に世界は輪郭を無くす。欠伸をした後の涙目で見るような景色、と言ったら分かって貰えるだろうか。輪郭が溶けて、滲んで、その姿が曖昧になる。境界があやふやになる。眼鏡無しの私に見える風景は常にそんな風で、ひどく頼り無い。
「でも、空は眼鏡無しでも変わりは無いから」
それでも青空や夕焼けは、眼鏡をかけていても、かけてなくても同じに見えた。眼鏡も嫌いじゃないけど、眼鏡無しでもクリアに見える空を、夜の帳が下りるまでの僅かな時間、眼鏡無しで過ごすのは私の密かな楽しみだった。
「……そんなに、目ぇ悪いん?」
「うん。この位の距離でも忍足くんの表情は分からないよ」
こちらを向いているのだろうな、というのは分かってもどんな表情を浮かべているかまでは分からない。忍足くんは脇に置いていた私の眼鏡に手を伸ばしてきた。
「忍足くん?」
筋張った手が眼鏡を取り上げて行くのを見つめていると、忍足くんは私の眼鏡を手にしたまま立ち上がる。
「これ無いと、何も見えへんのやね」
低く囁かれた声に不穏な響きを感じたのは気のせいか。
「そう、だけど……」
ふ、と小さく笑い声を立てた忍足くんが私の左肩を掴む。思わず肩を強張らせると、至近距離に忍足くんの顔があって息を呑んだ。何度か目を瞬かせると、忍足くんの唇が楽しそうに弧を描く。
「はは、目ぇ泳いどるで、」
「お、忍足くんのせいでしょ」
間近で見た忍足くんの端整な顔に心臓の鼓動が速くなっていく。緊張してどもると、忍足くんは咽喉の奥で笑った。
「なあ、こんくらい近付いたら見えるか?」
「さすがに、この近さだったら見えるよ」
その眼鏡も、切れ長の瞳も、揶揄うように弧を描く唇も、明瞭に見て取れる。こんなに他人と近付くこと自体、家族や友達以外では初めてで緊張した。ましてや、相手が忍足くんだなんて。ごく普通に生きている私と、テニス部レギュラーで、校内どころか校外でも人気のある忍足くんとの繋がりはクラスメイトであるというだけだった。
「も、もう、いいでしょう? 眼鏡、返して」
そろそろ空も暗くなる。世界の輪郭を取り戻さなければ、私は家にも帰れない。
「……嫌や、て言うたら?」
「え?」
「今やったら、俺以外見えへんのやろ」
そう言って、ますます顔を近付けて来たので鼻先が触れそうになった。肩を掴まれていたけど、必死で背中を後ろに反らし、忍足くんの胸を両手で押す。
「ちょ、っと……もう、揶揄わないで、」
「揶揄うてへん」
「なに言って……えっ」
気付くと忍足くんは私の左肩どころか、両肩を抱き締めていた。首に触れる忍足くんの髪に、頬に触れた制服のざらりとした感触に混乱する。呼吸が、覚束なくなる。
「忍足く、」
「―――なあ、少しこのまま居ってええか」
頭の後ろから聞こえてきた声の持ち主は、問いかけてきたくせに逃げることを許さないように腕に力を籠めた。私のものでは無い匂いに、体温に、ぼやけて見える世界すらも霞んでいく。
('07.10.15 Happy Birthday to Yushi Oshitari!!)
忍足、お誕生日おめでとう! でも全然関係ない内容でごめんなさい……(お互いの気持ちも曖昧だし)。でもこのネタは忍足以外で考えられなかったのです。