「何よそれ……」

掲示板の前で思わずひとりごちた。





前 途 洋 々










それは、梅雨の晴れ間、とでもいうように気持ち良く晴れた六月のある日のことだった。雨上がりのせいか空気も澄んでいる気がする。薄水色の空には雲一つ無くて、久々に傘という余分な荷物無しで歩いていた。ぼんやりと鮮やかな緑を仰ぎ見ながら、込み上げてくるあくびを噛み殺す。そんな私の目に飛び込んできたのは掲示板に貼られた“休講”の二文字だった。まさか、と何度見直しても、結果に変わりは無い。

朝一のその講義は必修科目で、毎週眠い目を擦って出席していた。講義自体は興味があるものだし、嫌々ではなかったのだけど、いかんせん、朝に強くない私に早起きは苦行でしかない。今日は他に受ける講義は無いから、全くの無駄足になってしまった。肩を落としながら、図書館にでも寄って帰ろうかと思った時、携帯がメールの着信を告げる。一つため息をついてバッグから携帯を取り出すと、メールは侑士からで、今日はこれだけやのに休講になってしもた、というものだった。同じ状況を甘受しているのが可笑しく、何となく気分が上向きになる。私も、とメールを返すと直ぐに電話がかかってきた。慌てて通話ボタンを押すと、侑士の声が聞こえる。

「どうしたの?」
――何や、も休講になってしもたん?
「そうなの。早起き頑張ったのに」

つい愚痴ると、侑士は回線の向こうで軽やかな笑い声を立てた。

――なあ、今日は一コマだけて言うてたよな?
「うん」
―――せやったら花見せえへん?
「……え?」

……花見?
のんびりとした口調で告げられた単語に、一瞬思考停止する。

「何、どういうこと?」
―――それは来てからのお楽しみや。今から買い物して帰るから昼に来てや。待っとるからな。
「ちょ、侑士?」

そう言って侑士は電話を切った。残されたのは無機質な通話終了の音だけ。
……花見?
桜の頃はとうに過ぎているし、今の見頃といったら紫陽花くらいしか思い付かない。蓮や睡蓮だろうか。しかしそれには時期が早すぎる。確か七月頃観た記憶があった。
……ま、いいか。
携帯をバッグに仕舞って図書館に足を向けた。入口でカードを通し、館内に入ると朝早いせいか閑散としている。せっかくだから、レポートに必要な資料を探しておこうと検索機に向かい、目当ての資料に関連してそうな単語を入力した。







本来なら二限目が終わる頃、私は侑士の住んでいるアパートの前に立っていた。大学に入る頃、侑士のご両親は転勤で東京を離れたので侑士は一人暮らしをしている。侑士の部屋番号を押してチャイムを鳴らすと、インタフォンからのんびりとした声が返ってきた。

「来たよー」
――はいはい。上がって来てや。

鍵の開く音がしてガラスのドアを開ける。ふと甘い香りがした気がして周りを見回した。近くの家の木々は青々と葉を茂らせているけれど花が咲いている様子は無い。気のせいか、とエントランスを抜けエレベータのボタンを押した。見慣れた箱に乗り込み侑士の部屋のある階のボタンを押す。止まるときの独特の浮遊感をやり過ごし、エレベータを降りると侑士の部屋のドアが開いた。

「いらっしゃい」
「わー、お出迎え?」

茶化すように笑うと侑士も笑う。

「勿論。大事なお姫さんのご到着やからな」
「……お姫さんって」

逆に揶揄われてしまって顔を赤くすると、中に促された。

「お邪魔します」
「……なあ、昼飯まだやろ」
「うん」
「何や焼きそば食いとうてなあ、さっき作ったんやけど、食う?」
「え、嬉しい。食べる!」

一人暮らしと持ち前の器用さから侑士は料理が得意だ。お菓子を焼いたりはするけど、料理はほとんどしない私よりも。彼女らしく、ごはんの一つでも作れたらいいと思うのだけど、侑士の手伝いをするので精一杯、というていたらくだ。焼きそばをお皿に注ぐのを、やはり手伝って昼食の準備を整える。私専用のお箸もセットして手を合わせた。

「いただきます」
「はい、どうぞ」
「……そう言えば、花見って何処に花があるの?」

食べながら思い出して問うと、侑士はお茶を注いでくれながら答える。

「食べた後のお楽しみや。これもあることやし」

侑士はにやりと笑い、和紙に包まれた瓶を見せた。

「おとんが送ってきてくれてん」
「お酒……?」

手を出すと、重いで、と言って瓶を手渡された。私でも見たことのある銘柄のそれは、生搾り原酒、と書かれている。

「普通に売ってるやつもうまいんやけどな、これは更にうまいでー」
「へえ……」

しげしげと瓶を眺めてみたが、見てもよく分からなかった。日本酒をあまり飲んだことが無いので味の予想もつかない。

「花見言うたら酒やしな」
「えっ、お昼から飲むの?」
「贅沢やろ?」

そう言われると、何だかそんな気がしてきた。頷くと、侑士は笑う。

「せやから、飲む前に腹に入れんとな」
「うん」

日本酒はあまり飲んだことが無いけど、お酒を飲むのは嫌いじゃない。もくもくと食べていると笑いを堪えるような侑士と目が合った。

「……ほんまはうまそうに食うなあ」
「だって美味しいもん」

ひとくちに焼きそばと言っても、野菜やそばの火の通り具合とか味付けで変わるものだ。さすが大阪出身と言うべきか、侑士の作るソース系の料理にはずれは無い。

「そうか」

侑士は照れくさそうに笑った。







水に漬けとけばええよ、と言われたけど、これ位は、とお皿とカップと鍋を手早く洗い、水切りかごに伏せる。大量じゃなければ皿洗いも嫌いじゃない。タオルで手を拭いていると瓶と小さなグラスを手にした侑士が手招きした。

、こっち」

侑士は唇の両端を上げベランダに促す。開けた窓からは心地よい風が入ってきていた。サッシを開け、ベランダに出る。

「あそこ、見えるか?」
「うん? ……あっ!!」

侑士の指した先に、白い花が咲いていた。生成りに近い白の、こっくりとしたクリームを成形したみたいに滑らかな花弁は、大きい。

「泰山木、いうんや」
「たいさんぼく……名前は聞いたことある」
「香りもするやろ」

先ほどエントランスに入ろうとした時に感じた匂いだった。あの時、花は見えなかったのに。それを伝えると侑士は手すりに凭れたまま教えてくれた。

「泰山木は高いところに咲く花なんやて」
「そうなんだ。ちょっと花びらが木蓮に似てるね」
「ああ、そういや調べた時モクレン科て、書いてあったわ」
「ふうん、綺麗だねえ」
「借景いうんかな、こういうんも」

侑士はグラスにお酒を注いで、ひとつを私に手渡してくれる。

「ほい」
「いただきます……」

恐る恐る口をつけると、フルーティな香りが広がる。

「美味しい……」
「せやろ」

何度か飲んだことがある日本酒は、燗つけしてあったからか甘ったるくて、咽喉につかえるような気がしていたのだけど、これはそんなことも無い。ビールみたいに一気に飲めるようなものでは無いけど、杯が進んでしまいそう。

「冷やしたらもっと口当たりがええねんけど、良過ぎて飲み過ぎてまうからな」
「うん、これくらいでいい」

少しずつ嘗めながら、泰山木の花に目を遣った。やわらかな白色の花は堂々と咲き誇っている。微かに漂う花の香りとお酒の香りに頭の芯がふわふわしてきた。

「……あ、」
「ん?」
「あの木、金木犀だ」

金木犀は好きな花なので木肌や葉が分かる。祖母の家にも植えてあるし、毎年気にして観るので間違っては無い筈だ。

「どれ?」
「あの、柊みたいな葉の、」
「あれか」
「去年来た時は気付かなかったなあ」

侑士は二杯目を注ぎながら笑う。

「じゃあ、次は金木犀の頃花見やな」
「……また飲むの?」

手すりに凭れてるのがつらくなってきたので、窓辺に腰掛けた。まだ酔ったという程ではないけど、日本酒には慣れていないから突然転んだりしても困るし。

「飲めへんくてもええけど、と一緒に観たいなあて」

……この人はどうしてこう。
お酒のせいだけでなく顔が熱くなる。隠すように一口飲んで、大きく息を吐いた。
……どうしよう、目が回ってきた。
そんなに弱い方ではないと思っていたのに、ゆらゆらと世界がゆがむ。お行儀が悪いけど、グラスを脇に置いて、そのまま後ろにゆっくり倒れた。

「何や、もう酔うたん?」

にやにやと笑う侑士の確信犯的発言に、うう、と唸るように返す。

「……侑士のばか」
「ばかて言うなや」

侑士は二杯目に口をつけながら、笑い声を立てた。そして隣に腰をおろして私の頬を撫でる。

「……そう言えばな、」
「うん?」
「泰山木の花言葉、”前途洋々”て言うねんて」
「へえ……」
「何かええなあ、思て。に見せたかったんや」

……あいかわらずロマンチストだなあ。
こっそりと笑いをこらえる。寝転がってしまったので、視界に広がるのは侑士と、侑士の後ろの青空だけ。花は見えなくなってしまったけど、風に乗ってあまい香りが漂ってくる。見えないのにそこに咲いていることが分かる、なんて素敵だな、と思った。くるくる回る視界に目を閉じる。

、ほんまに酔うてしもたん?」

心配そうな声に、首を横に振った。

「んーん、大丈夫。……侑士、」

手探りで侑士の手を探し、そっと握る。

「ん?」
「教えてくれて、ありがと」

どういたしまして、と侑士の唇が弧を描いたのが、目を閉じていても分かった気がした。



('11.10.15 Happy Birthday To Yushi OSHITARI!!)



うちのサイトではいつものことなのですが、誕生日関係無い話ですみません……。祝いたい気持ちはあるけど思いつかないんだ……。せめて、と思ってほのぼのらぶらぶ(笑)な感じにしたつもりです。
泰山木を観た記憶と、この前飲んだ美味しい日本酒と、忍足と昼酒を飲みたいなあというのが相まってこういう話になりました。春の花見の時くらいしか、昼にお酒を飲んだことは無いんですけどね。そして、日本酒はほとんど飲まないのですが、この話のモデルにしたお酒が凄く美味しかったんですよ……!(久保田の生搾り原酒、というやつでした)
ひや(常温で飲むこと)で飲んだのですが、フルーティで甘ったるくなくて、これならいくらでもいける……! と思いました(笑)。そうやって失敗したことあるから(えへ……)一杯だけしか飲みませんでしたが。