この想いが何処に辿り着くのかも分からない。けれど。
1.彷徨う魚たち
「おーい、仁王ー……、と」
丸井くんは振り返った私を見て目を丸くする。そして、にやり、と唇の端を上げた。私の姿を上から下まで見回し、にやりと笑った顔のまま言う。
「……で、あいつがあっちに行ってんの」
「そ」
「柳生が了承するなんて珍しいのな」
「……やね」
丸井くんは笑いを噛み殺し、ズボンのポケットに手を入れる。そして、あ、と小さく呟いた。
「これ、さっき貰ったんだよ。分けてやる」
「おお。すまんの」
私が手を出すと、丸井くんは笑って掌に二つ、飴玉を落とす。
「これでこの前辞書借りたのチャラな」
「……」
頷く間も無く丸井くんは歩いて行ってしまう。ため息をつきそうになるのを堪えた。
……全く、私も皆も慣れてしまって。
仁王くんの扮装をすることに、私もテニス部の皆も慣れて見分けがつくようになってしまった。これでやめるようになるかと思ったのに、やめるどころか認められたんじゃからええじゃろ、と仁王くんはやめようとはしない。今朝も突然言われ済し崩しのように入れ替わることになってしまった。
……まあ、断らない私も悪いんでしょうね。
つい目元に手をやりそうになって、今度こそため息をつく。
「あ、仁王ー」
背中からの声に今度は体が震えそうになった。私はゆっくりと振り向く。
「……何じゃ、」
そこにはさんが立っていた。さんは私が仁王くんでは無いことに気付くことも無いまま口を開く。
「柳生くんのノート、持ってるでしょ」
「……ノート? 何の」
「物理。柳生くんに借りられるように話を付けてやったから借りに行け、って言った本人が、そのノートを持ってるってどういうこと?」
……初耳なんですが。
仁王くんの席に戻り机の中を漁ると、私の名前が書かれたノートが出てきた。
「これか?」
……そういえば、貸していましたね。
さんに差し出すと彼女は受け取って笑う。
「ちゃんと返しなさいよ」
「……すまんのう」
理不尽に感じながらも謝った。手持ち無沙汰でズボンのポケットに両手を入れるとかさり、と微かな音がする。さっき丸井くんに貰った飴玉だ。
「じゃあ」
「ああ待ちんしゃい、」
「え?」
ノートを胸に抱え、さんは振り返った。
「これ、やる。さっき丸井から、貰うたんじゃ」
「……いいの?」
「ん。二個貰ったからの」
「……有難う」
飴玉を受け取ると、彼女は頬を染め、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ると、決まって胸の奥は痛んだ。何故、そんなに無防備に笑うのかと――――何故、私に対してでは無いのだろうかと。
「じゃあね」
「ん」
必死に思考を逸らしながら、頷いた。
***
「すまんかったな」
昼休みが終わる頃には互いの扮装を解いていた。仁王くんは私の眼鏡を差し出しながらにこやかに告げる。
「いえ……」
「ああ、ノートも。すっかり忘れとった」
「私もです」
そう返すと仁王くんは僅かに瞠目した後、唇の両端を上げた。
「珍しい事で」
「……そうですね」
さっき見た、彼女の笑顔を思い出しながら返した。
さんは、仁王くんの事を好きなのだ。仁王くんと話している時の彼女は嬉しそうに微笑んでいる。
仁王くんを介して知り合ったさんは、何処か仁王くんと似た雰囲気を持つ人だった。自由で、何ものにも囚われない、芯の強い人。どちらかと言えば近寄りがたい感じに整った顔立ちをしているのに、笑うと幼くて私の胸を鷲掴んだ。
目で追うようになるのに時間はかからなかった。
だからこそ直ぐに分かった。彼女の視線が何処に向かっているのか。
「……意外と簡単やのにな」
「は?」
唐突な仁王くんの物言いに素っ頓狂な声が出てしまった。誤魔化すように眼鏡の位置を直すと、仁王くんは咽喉の奥で笑う。
「なーんでもねえ。じゃ、また後で」
「……はい」
銀色の尻尾を翻し、仁王くんは去って行った。
('07.8.26)
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