さん」

さんは目に見えて分かるほど体を震わせた。その膝にはもう絆創膏は貼られていない。そのことにほんの少し安堵した。

「……足はもう宜しいのですか」
「う、うん。大丈夫」

答えながらもさんは私の目を見ない。

「それは良かった……ところで、」
「……何?」

この場を立ち去りたそうにそわそわするのが分かっていても逃がす気なんて無かった。意志を尊重する余裕など、ありはしない。

「……いえ。久々に、お会いしますね」
「そ、うかな」
「ええ……私を避けていらっしゃったようですから」

八つ当りだと自覚していながらも口にした言葉は彼女を的確に衝いたようだった。さんは弾かれたように顔を上げる。彼女は目が合うとあからさまに逸らして見せた。

「避けてなんか、」
「嘘ですね」
「……っ。だって、」

唇を震わせながら彼女は口を開く。

「先に、避けたのは比呂くんの方でしょう?」
「……それは、」
「……分からないよ」

泣きそうな顔をしてさんは私を見た。











比呂くんは困惑したようにわたしを見下ろしている。

「避けられたから避けて、何が悪いの」

居直ったように告げると比呂くんは言葉を詰まらせた。そうだ、責められる謂れは無い。

「……手を離したことをおっしゃってるんですね」
「違う」

でも、違わない―――どちらが真実なのか、わたしにも分からない。
本当に言いたいことは言葉に出来ない。あやふやな感情を並べ変えて意味のある言葉にするのは何て難しいんだろう。わたしが黙っていると比呂くんは深いため息をついた。言っちゃ駄目、そう思いながらもため息が癇に触り、続ける。

「嫌なら、落ちても放っておいてくれたら良かったのに」
「そんな……! 違うんです、」
「何が違うの!」

比呂くんは何か言いかけて止める。気不味い沈黙ばかりが密度を増して息苦しい。もう嫌だ。どうしてこうなったの。思考の迷路は引き返しても袋小路ばかりで前にも後ろにも進めない。ひよっとしたら出口など無いのではないだろうか。

「……驚いたんです」
「え?」
「こんなにも自分と違うのかと」







さんは意味が分からない、とでも言いたげに私を見上げている。

「だから嫌なのではありません。むしろ逆なんですから」

そう言って彼女の腕を引いた。たたらを踏んださんの体は倒れ込むように私の腕の中に納まる。

「比呂くん!?」
「ずっと、」

柔らかい髪から匂い立つ、花のような甘い香りが私の肺に満ちていく。

「こうしたかった」

鼻先を彼女の髪に埋めるとさんは体を震わせる。こんなにも簡単なことだったのだ。やはり身動ぐ彼女の力などたかが知れている。箍が外れたようにさんを抱き締めていると小さな手が腕に触れた。

「……どうして?」

その呟きまでも震えている。私は大きく息を吸い込んだ。

「私が貴女を……好きだからです」

緊張で声がかすれる。腕の中のさんは小さく息を呑んだ。







押し殺したように囁かれた告白はただでさえ速い心臓を止めてしまうかと思った。都合の良過ぎる夢を見ているのでは無いだろうか。

「怪我させるつもりなんて、無かったんです……」

呟くように落とされた懺悔に顔を上げる。

「じゃあ、」

心配そうに見つめる比呂くんに微笑んで見せた。

「もう治ったけど、責任、取ってくれる?」
「……取らせて頂けるんですか」
「違う。比呂くんに、取って欲しい。比呂くんがいいの。だって……わたしは比呂くんが好きだから」

比呂くんは驚いたように目を見開いた後、笑う。

「……しっかり、取らせて頂きます」

やわらかく回された腕が、わたしを捕まえた。





こうして抱き合っても、間にある一年の差と同じように完全に融け合うことは出来ない。それは悲しいことだけど、それでも比呂くんがいいって思う心は止められない。ならばいくらでも乗り越えてみせよう。比呂くんがわたしを追いかけてくれる限り。





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('08.6.27)



8760時間=365日×24時間
  カノン=追走曲
以下蛇足。


左が柳生、右がヒロイン、という、読みにくい形ですみません……。
でも一度やってみたかったのです、こういう形(と毎日更新)。
何となく、追いかけっこっぽいかなあとこのタイトルです。 カノンのイメージってそんな感じ。
でも最後には重なるんだよ、とは某コバルト作品の影響です、ええ(笑)。