―――早く食べておしまいなさい。
―――で、でも、
―――これから、幾らでも差し上げますから。

そう言って柳生くんは笑った。










3.月光










……あの時本当に、本当に嬉しかったんだけどな。
飴をくれる、と言ったことじゃない。そう言ってくれた気持ちが、嬉しかった。

わたしは机に突っ伏したまま窓の外の空を見上げる。筆で刷いたような輪郭の滲んだ暗い色の雲は、オレンジ色の空を背景に緩やかに流れていく。
……あんな柳生くん、初めて見た。
穏やかな微笑みはそこに無く、あんなに冷たい声も出せる人なのだと知った。苦しそうに告げる柳生くんを見て、そんな風にさせているのが自分なのだとは信じたく無かった、……仁王と仲が良いことを気にしているとは思って無かった。
……このまま、別れることになるのかな。
頬に感じるつめたい机の感触に、ため息しか出てこない。

両想いになる、って幸せなことだとばかり思っていた。好きな人が自分のことを好きになってくれるなんて、奇跡のようだと。でもそこで終わりじゃないんだ。ゴールじゃなくて、スタート、なんだ。片想いの時は自分の好きだという気持ちだけで良かった。でも両想いになると相手の気持ちもある。わたしだけの感情ではどうにもならない。それでも、お互いの感情を同じにすることは不可能でも、寄り添わせることは出来るかもしれない、そう思ったのに、それはひどく難しくて。

好きな気持ちに変わりは無い。傍に居るだけで、さん、と名前を呼んでくれるだけで胸が一杯になる。これをどうしたら柳生くんに伝えられるんだろう。好きだけじゃ足りないのだろうか。好きという気持ちだけでは、付き合うのは不可能なんだろうか。

こういうことを相談したことも無いし、相談したとしても答えが出るとは思えない。相談するような相手だって仁王くらいしか思いつかないし、こうなった元凶――と言ったら酷いけど――相手に相談出来る筈も無かった。

泣いたら少しは楽になるのかもしれない。でも、涙は湧いてこない。もともとそんなに涙もろくは無いのだ。感情を隠すことに慣れていて、いざ、泣こうとすると戸惑いが先に立つ。どうしたら涙が出るか、思い出せない。

「――さん!?」

その声に弾かれたように身を起こすと、柳生くんが慌てたように教室に入ってきた。わたしの席に駆け寄ってきた彼を見上げると、柳生くんは大きく息を吐く。

「……柳生くん?」
「倒れて、いらっしゃるのかと」
「ち、違うよ。ただ、伏せてただけで、」
「……そうですか」

安堵したように柳生くんは微笑む。涙もろくは無いとついさっき思った筈なのに、その笑顔に何だか涙が出そうになった。
……いつもの、柳生くんだ。

「この前は、すみません」

そう言って柳生くんは頭を下げる。

「言い過ぎ、ました」
「……でも、思ってるんだよね」

皮肉を言いたい訳じゃないのに、勝手に口は紡いでいた。柳生くんは瞠目した後、頷く。

「……ええ」
「どうしたらいい? 仁王と話すのを止めればいい?」
「それは、」

言葉を詰まらせた柳生くんを見つめたまま続けた。

「でも、そんなの出来ないよ……柳生くんだけでわたしの世界は出来ていないもの」

柳生くんはつらそうに眉根を寄せる。ああ、そんな顔はさせたくないのに。

柳生くんだけ、と言い切れないわたしは、柳生くんのことを好きとは言えないのかもしれない。柳生くんが居ればそれでいい、とわたしは言い切れない。何処か冷静な自分が居て、それだけで生きてはいけないだろう、と囁く。家族が居て、少ないけど友達が居て、好きなこともあって。そんな中でわたしは生きているのだ。柳生くん以外全てを捨てることなんて、出来ない。だけど。

「……でも、柳生くんを好きなのも、本当なの……」

それでも、この気持ちは嘘じゃない。嘘偽りの無い真実だと、胸を張って言えた。柳生くんは何度か目を瞬かせた後、そっと眼鏡を押し上げる。

「……もう、あの飴は食べてしまいましたか?」
「えっ? ……ううん、まだ取ってある、」

恥ずかしくなりながら返すと、柳生くんは持っていた袋をわたしに差し出した。

「……これは?」
「これからいくらでも差し上げます、と言ったでしょう?」

袋を開けてみると色とりどりの飴が入っている。勢い良く顔を上げると優しい微笑にぶつかった。

「言った、けど……いいの? まだ、わたしと……付き合ってくれるの?」
「……この前のは、」

柳生くんは視線を窓に遣る。その端整な横顔を見るだけで、わたしの胸は簡単に跳ねた。

「嫉妬です」
「……え」
「みっともないでしょう?」

自嘲気味にわたしに笑った柳生くんに首を横に振って見せると、目を伏せて続ける。

「貴女こそ、いいんですか? これからも、私はこんな風に貴女に傷付けてしまうかもしれませんよ? ……それでも、私と付き合ってくださいますか?」

それは落ち着いた口調だったけど、祈りの言葉のようだった。わたしは柳生くんの手に触れる。

「……うん」

柳生くんは驚いたように身を震わせたけど、わたしの手を振り払ったりはしなかった。



***



靴を履き替え外に出ようとすると、柳生くんがドアを開けてくれた。有難う、と言うと、黙って唇の両端を上げる。肩を並べて校門までの道を歩きながらさっきからずっと思っていたことを問いかけてみた。

「……そう言えばテニス部は? 今日はお休み?」
「……休んでしまいました」
「ええっ!? そんな、」

いいんです、と柳生くんは苦笑を浮かべる。

「きっと、行っても身が入らなかったと思いますので」

その言葉に、一杯だと思っていた筈の胸が一杯じゃなかったことを知った。
……感情の容量って、ひょっとしたら無限なのかもしれない。

「……柳生くん、」
「はい、何でしょう?」
「あのね、その……名前で呼んでも、いいかなあ……?」

柳生くんは一瞬動きを止めた後、焦ったように眼鏡の位置を直す。

「そ、それは構いませんが……、」
「比呂士くん」

比呂士くんははっきりと見てとれるほど顔を赤くした後、一つ、咳払いをした。

「何でしょう……さん」

聞き慣れたわたしの名前なのに、その響きは柔らかく胸を刺す。この胸に受けてもいい、と思える痛みをくれるのは比呂士くんだけだ。痛いのは嫌いだけど、比呂士くんからなら痛みでも受け止めたい。

「……呼んでみただけ」

比呂士くんはそうですか、と笑った後、そっと私に手を差し出した。差し出された手に手を重ね、熱い頬を冷ますように空を見上げると、先刻まで流れていた雲は姿を消していて、代わりに白い月が浮かんでいた。


('07.11.3)


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タイトルは、月にかかる暗雲、みたいな意味で。
以下、いつものごとく蛇足です。


「雨の庭」で仁王が出張っていたせいか(まあ、私が仁王好きなんでこれは仕方ないんですけど。<開き直り)、付き合っていく内に柳生は仁王に嫉妬しちゃうだろうなあ、と。あと、某ドラマの最終回に物凄く納得いかなくて(そこで諦めんなよ! と一人で叫んでいました)こういう話が出来上がった訳です。

そうそう、二話目の「人はその場に居ない人の話をする」は、先日観た「猫と針」@演劇集団キャラメルボックスのコピーです(笑)。本当にそうだなあと思って使わせて頂いたのでした。