12/水和











プールに行ってみたがの姿は無かった。それならば裏庭か、と行ってみると予想通り、はベンチに座って目を閉じていた。

、」
「……ん? あ、跡部くん。この前は……残念、だったね」

目を開けたは眉を下げて呟く。先日の大会も観に来ていたのだろうか。醜態を晒してしまったことを苦々しく思いながら頷いた。

「……ああ。ところで、」

は不思議そうに小首を傾げる。

「留学するんだってな」
「うん」

その言葉に、はようやく微笑を浮かべた。

「夏休みが終わる頃には、もうあちらに行くよ」
「新学期に合わせてか」
「そう。氷帝の姉妹校だから単位とかは問題無いみたいなんだけど、手続きに時間取られちゃって最近泳げないの。分かっていたことだけど、面倒臭いなあ」

泳ぎたいだけなのに、とは口を尖らせる。

「……急な話だな」
「急でも無いんだよ。話は去年くらいからあって、」
「迷ってたって訳か?」

足をぶらぶらさせながらこくりと頷く。そして思い出したように笑った。

「でも、跡部くんが言ってくれたから」
「……は?」
「好きなだけ泳げばいい、って」

俺を見上げては続ける。

「何処までやれるか分からないけど、頑張ってみようと思う」
「……そうか」

背中を押したのが自分だと分かって複雑な気持ちだった。だが、行くな、なんて死んでも口にしたくなかった。

「でも卒業してから行きたかったなー」
「何でだよ」

は校舎を見ながら呟く。

「寝るか泳ぐかしかしてなかったけど、氷帝、好きだったから」

好きだった、とは過去形で口にした。それは心を決めた証拠に他ならない。誰が何と言おうと揺らがない。

「精々……、頑張るんだな」
「うん」
「……ま、どうせ直ぐに泣いて戻って来るかもしれねえし?」

俺の言葉を聞いたはふき出した。

「ひどーい!」

そして真っすぐに俺を見つめる瞳は、水面の輝きを映し込んだ光を湛え。

の見つめている世界を共有することは出来ない。が青い世界を見ているように俺は俺の前に広がる世界を見ている。例え顔を向け合っていてもお互い違う方向を見ているのだ。

「泣いて戻ってきたら慰めてやるよ」
「……うん」

俺を見つめていたは小さく笑い声を立てた。

「何だよ?」
「跡部くんの瞳、」
「瞳?」
「やっぱり綺麗な青だなあって。跡部くんに見られていると水の中に居るみたいだった」

睡れる人魚は今、目を覚ます。こんな狭い世界なんかじゃない。もっと広く深い世界に飛び込むために。

「……行ってこい」
「うん……有難う」

最後の謝辞は、聞こえなかったふりをした。





*

*

*





新学期が始まり、プールにも裏庭にもの姿は無かった。今までそこに当たり前に居たものの不在、それは弱冠の心許無さを感じる。しかし、それだけに心を割いている訳にもいかない。やるべきことは幾らでもあるのだ。そんな中でも、俺は以前と変わらずテニスをしていた。

、行ってしもたなあ……慈郎寂しいやろ」
「うーん、まあね」

慈郎は目蓋をこすりながら気の無い返事をする。拍子抜けしたのか忍足はこちらに水を向けた。

「跡部は、良かったん?」
「何がだ」
「や、うん、な。……あー、もう何やねん! 面白ぅないなぁ」
「……生きてりゃ、その内また会えんだろ」

に足を与えたいのかと自問自答したことがあった。だがその必要は無い。は既に足を持っている。声を失うことも、泡になることも無く。その足で、腕で、泳いでいくが、呼吸が続かなくて陸に上がる時にまた会えるだろう。例え互いの世界を見られなくとも、見つめ合うことは出来るのだから。そう―――まだ終わっていないのだ、何もかも。

こんな感情も一時的なものなのかもしれない。直ぐに忘れてしまうのかもしれない。だが、存在したという事実は消えない。例え色褪せたとしても、消せはしないのだ。

俺はロッカーに立てかけていたラケットを取り上げる。

「無駄口はここまでだ。俺はもう出るぞ」
「へいへい……跡部はクールやなあ」

つまらなさそうに呟く忍足を鼻で笑い、コートへと続くドアを開けた。


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('07.6.5)