あの時のことを、忘れたことは無かった。





1.雨 と 合 鍵










ドアを開けたは眉を寄せた。化粧を落とそうとしていたのか、前髪をターバンで上げている。

「……すまんの、遅くに」
「分かってるじゃない」

そう言いながらも俺が靴を脱いでいる間にドアの鍵を閉め、チェーンをかけた。玄関を入ってすぐの棚に無造作に置かれた鍵を見つけ、鍵をすり替えて持ち出して合鍵でも作ってやろうか、などと物騒なことを考えていると、それを見透かしたようには口を開く。

「……合鍵でも作ろうか、とか考えてないよね」
「……だったら?」

ふ、とは微笑んだ。

「即引っ越し」
「……ソウデスカ」

その微笑は再会した時のことを思い出させた。



◇ ◇ ◇



ゼミの飲み会で行った大学近くの居酒屋に入り、幹事の後について行っていると見覚えのある顔を見た気がして立ち止まった。後ろを歩いていたやつが背中にぶつかってくる。

「仁王? 何だよ急に立ち止まって」
「あ、すまん」

合コンだと一目で分かる、同数の男女が居る席の中にが居た。恐らく強引に連れて来られたのだろう。居心地悪そうにライムサワーを口にしている。

「……へえ」
「仁王、こっちだ」

幹事の声に頷いて見せた。





トイレに行こうと席を抜け出してきたら、お開きになったのか、たちの席では帰り支度が始まっていた。は疲れたような顔でマフラーを巻いている。俺は慌てて席に戻り、金を置きながら先に帰ることを告げた。途端に女だろ、と笑われる。まあ、間違ってはいない。店を出ると、は集団と別れ駅に向かって歩いていた。

、」
「……仁王?」

振り返ったの声はマフラーのせいかくぐもっている。

「駅までか」
「……うん、まあ」

そのまま隣を歩き出すと、はちょっと驚いたように身を強張らせた。しかしそれも一瞬のこと、再び歩を進める。

「……久しぶり、じゃの」
「そうだね」
「合コンか?」
「え?」
「さっきの店に、俺も居った」

はそうだったの、と微かに笑った。違和感を覚え隣を歩くの顔を盗み見ると薄くだが化粧をしている。大学生にもなっているんだから、それは何らおかしなことでは無い。ただ、記憶の中のはまるで化粧っ気が無いので、不思議だった。

間近で見るのは本当に久しぶりのことだ。あの時以来、と言葉を交わしたことは無かった。同じ大学に通っているというものの、学生数が多い立海では学部が違えばほとんど交流は無い。そんな中、姿を見かけることがあっても声をかけたことは無かった。かけられたことも、無かった。

「……つまらんかった?」
「え?」
「合コン」

ああ、とは頷いた。

「数合わせで仕方なく、だったから」

ため息をつきながら言ったは首を傾げる。

「仁王も合コン?」
「ゼミの飲み会……合コンは必要無いのう、彼女居るから」

ふうん、と興味無さそうに呟くの足取りはしっかりしていた。その伸びた背中を見ていると陽炎のように記憶が胸に立ち昇る。
……あれは白昼夢のようだった。
屋上に通じるドアの前であったことは何年経っても忘れたことは無かった。そこで別れてから一言も口をきかなかったのに。

「あ、」
「ん?」
「―――雨だ」

顔に冷たいものを感じ顔を上げると、暗い空から雨粒が降ってきた。雨粒の落ちる間隔はどんどん狭まっていく。俺はの手を取った。

「急ぐぞ」
「え、ちょ、」

駅の明かりはもう見えている。走り出そうとすると、は立ち止まった。

「何じゃ」
「違うの、」
「はあ?」

そうしている間にも容赦なく雨が降り付ける。

「私、駅には行かないの」
「何で」
「駅の近くに一人暮らししているから」

はそう言って、困ったように手に視線を落とした。

「……ああ」
「ごめん、濡れちゃったね」
「まあ、構わんけど」
「……うちに寄る?」

顔の雫を拭いながら、は続ける。

「傘貸そうか」

あの時のようだ、と思った。とんでもないことを告げたくせに、その顔には何の感情も無くて、冗談かと思ったことを覚えている。結果を言えば、冗談では無かったのだが。

「……ああ。そうさせて貰おうかの」





「ああ、もう……」

は鍵を開け、明かりを付けた。入ってすぐの棚に鍵を放り、傘を手にして俺を見上げる。

「……傘より、タオルの方がいいみたいだね」
「ここまで濡れたらな」

雫の垂れる前髪をかき上げて呟いた。

「じゃあ……お茶でも飲んで行く?」

……試されとるんか?
その瞳は笑っていない。唇は緩く弧を描いているというのに。

「……ええんか、こんな時間に男を家にあげて」
「そうだね」
「変なことされたらどうしよう、とか考えんと?」
「……そんなに喋る人だとは知らなかったな」

は、ふふ、と小さく笑い声を立てた。

「変なことしても構わないよ……初めてじゃないし」



その日、俺はを抱いた。あの時したのと同じように。



◇ ◇ ◇



「仁王、お風呂入る?」
「ん」
「じゃあ、先にどうぞ」

は薄化粧なので化粧を落としてもそんなに変わりは無い。だがあの頃に比べると確かに大人びていて時間の経過を感じさせた。

「一緒に入るか?」
「……ユニットバスでは無理でしょう」

はタオルを用意しながら呆れたような顔をする。思わず笑ってしまった。

「入ることに異論は無いんじゃな」
「そっ、それは……っ」

は微かに頬を染める。その肩を抱き寄せて口付けた。上着の裾から手を差し入れ脇腹を撫でると身を捩る。上に手を滑らせると下着を着けていなかった。は俺の胸を両手で押して距離を取ろうとする。

「に、おっ……、お風呂、入るんで、しょっ」
「入る」
「じゃ、」
「した後でな」
「……私、まだお風呂入ってないよ」
「構わん」

首筋に唇を這わせ上着を捲るとは躰を震わせた。柔らかい胸の間に唇を寄せると観念したように呟く。

「……ここだと、背中が痛い」
「……それもそうじゃな」

ベッドに連れて行き捲った上着を脱がせた。は俺のシャツの釦に手をかける。の胸に触れながら口付けると、応えるように唇を開いた。





カーテンから差し込む朝日で目を覚ました。目を擦りテーブルに放り出していた携帯で時間を確認しようとすると、画面には不在着信の文字。

「……授業、あるんだっけ?」

背中の後ろから聞こえた声は少し擦れていた。

「ん。そっちは二限目からじゃろ」
「うん、もう少し、寝る」
「そうか」
「気をつけて」
「ああ」

床に散らばった服を身に着けの部屋を出る。ジーパンの後ろポケットに入れていた携帯を取り出し着信履歴を呼び出した。そのまま発信ボタンを押す。

「ああ俺……すまんかったの。飲み会の後、友達んちに泊まって……いやゼミの。……ん、じゃ昼に。……ああ、好いとうよ」

通話を終わらせると陽光に目が眩んだ。白日の下だろうと嘘をつくのは簡単だ。手をかざし陽光から目を庇う。その手から鼻を掠めるものは。
……の、匂いじゃ。
鼻腔の奥のの匂いは、しばらく取れそうに無かった。


('08.1.24)


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