陥り眩む音の底 #1:止まる
「……あっ、ごめんな、さ、」
すれ違った人の肩にぶつかり、謝ろうとした私の言葉はそこで途切れた。銀色の髪の、口元にほくろのあるその人も、驚いたように固まっている。
その時、時間が止まり、世界が消えたような気がした。
ここに居るのは私とその人だけで、周囲の風景が融けて消えていくような。
私は、その人から視線を外す事が出来なかった。瞬きもせず、たとえ目が乾いてしまっても、その人の姿を目に映していたかった。音すらも、聞こえない。ただ自分の鼓動の音だけが全身で鳴り響く。
その人は、ゆるゆると自分の口元を覆った。
……何、何か言ったの。
そう問いかけたかったのに、声が出ない。私はひたすらその人を見つめた。困惑の表情を浮かべながら、彼も私から目を逸らさない。
……これは、一体、何?
「―――仁王!」
その声で、音が、時間が戻ってきた。赤い髪のその人は、面白そうに笑って口を開く。
「何やってんだよ、って……ナンパか? しかも氷帝の子を」
「ち、違います!! す、すみません、ぶつかったりして」
「いや、こっちも……すまんかったのう」
彼の口から不思議なイントネーションの言葉が落ちる。耳は必死で声を拾い続けようとした。それを振り切り踵を返す。
「いいえ、じゃあ、」
一刻も早くその場を立ち去りたくて、走り出した。
***
「おー、。何や、応援に来てくれたん?」
「あ、うん。け、じゃない、跡部くんの試合、まだ?」
「まだ。……跡部まで回らんかもしれへんなあ」
苦笑を浮かべ、忍足くんは言う。
関西出身の忍足くんは、東京で暮らしてもう六年になる筈だけど未だ言葉はそのままだ。今までテレビなどでしか耳にした事が無かったその言葉は、話す人によって、響きを変える。落ち着いた口調で話す忍足くんの言葉は、低い声と相まって甘やかだ。
「……何だ、。来たのかよ」
後ろからの声に私は振り向く。
そこには、テニス部部長で従兄弟の跡部景吾が立っていた。
「うん。この前伯母さんに言われたし」
この前お会いした時に、応援に行ってやってね、と言われたのだ。
「そりゃあ義理堅いことで」
跡部くんは涼しげに笑った。
母方の従兄弟の跡部景吾は、氷帝では有名な人だった。良家の子息が多いこの学校でも抜きんでた出自の持ち主で、成績優秀、容姿端麗、スポーツ万能という褒め言葉無しでは語れない上に、カリスマ性まで備えた人だった。そんな人と従兄弟だという自分が不思議で仕方が無い。母同士が姉妹だから、血の繋がりはある筈だけど、それすらも怪しいほど、私はごく普通の人間だ。
氷帝は、ほとんどが幼稚舎からの持ち上がりの生徒ばかりなので従兄弟同士だという事実は知られている。たまに「いいなあ、跡部くんと従兄弟同士だなんて」と言われる事があるけど、あまり関係無いと思う。そりゃあ、親戚付き合いがあるから話したりする事もあるけど、特別ではないから。
「あの冴えない彼氏とデートじゃ無かったのか」
「冴えないとか言わないで」
「ははっ!」
即座に切り返したのが可笑しかったのか、忍足くんが笑うのを恨めしげに見つめ、ため息をつく。
「いいの。私が好きなんだから」
「ハ! ままごとには付き合ってられねえよ」
「……な、何よそれ」
彼を見上げ必死で言い返すと、鼻先で笑われた。
「そのままの、意味だ」
「跡部ー、監督が呼んでるー」
向日くんの声に、跡部くんは頷く。
「ああ、分かった。じゃあな、」
彼が立ち去ると、またため息が出た。
「そない緊張せんでもええやん。従兄弟なんやろ?」
忍足くんは私のため息を聞いて微かに笑う。
「従兄弟だけど、格が違うっていうか……普通に話せるようにはなったけど、気後れするんだよね」
「そんなもんなんや」
「……忍足くんともそうだったよ」
「過去形なんは、光栄やな」
中等部から入学した忍足くんと話せるようになったのは高等部に上がってからだった。何しろ彼は、途中編入なのに、跡部くんと人気を二分するくらいの人だったので。それとは関係無く、人見知りする私は初対面でうまく話せた例が無い。従兄弟の跡部くんと仲が良く(仲が良いよね、と言ったら跡部くんは嫌そうな顔をした)、同じクラスになったから、ようやく話せるようになったのだ。
話してみた彼は、意外と、と言ったら失礼だろうが普通の人だった。跡部くんの従兄弟だからか、クラスメイトの誼か、気軽に話しかけてくれる。底が見えない人だとは思うけど、私は忍足くんを好きな訳では無いので特に気になることでもない。
「それはそうと、ほんま、彼氏はええの?」
「あの人も部活だから。いい顔はしなかったけど、従兄弟だって知ってるしね」
さすがに優しい彼も、他の男の応援に行くと聞くと渋い顔をした。私だって行くつもりは無かったのだけど、この前伯母さん、つまり跡部くんのお母さんに言われたから、無碍には出来なくてとりあえず、観に来たのだ。
「ま、ゆっくり観て行くとええよ」
「うん。忍足くんも頑張って」
「おおきに。じゃあな」
忍足くんの背中を見送りながら呟いた。
「……ままごと、ね」
違う、と、何故かあの時即答する事が出来なかった。
('05.11.7)
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