――― つい、かっとなってやりました。
(立海大附属三年・談)
衝動/前編
近付いてくる足音に私は膝を抱え小さくなる。
「――柳生、は?」
「おや、いらっしゃいませんね」
柳生はのんびりとした調子で仁王に返した。息を押し殺して二人のやり取りを聴いていると仁王は小さく舌打ちする。
「……また逃げられたか」
「逃げられた、なんて何をしたんですか」
「人聞きの悪かこと言うな。……それに俺は“された”方じゃ」
「はあ?」
「……また来る」
柳生はその言葉にため息で応えた。足音が遠去かっていく。隠れていた教壇から顔を出すと困ったように眉を寄せた柳生と目が合った。
「一体、何をなさったんです?」
仁王から逃げ続けてもう三日になる。
◆
三日前、自習になったのをいいことに私は屋上に向かった。室内に居るのが勿体無いくらいの晴天だったのだ。屋上への扉を開けると陽射しに目が眩む。目蓋を閉じても残る光に目をこすって屋上へ出ると先客が居た。
―――仁王、雅治。
同じクラスになったことは無くてもフルネームで答えられる位、立海大附属男子テニス部レギュラーと言えば校内でも校外でも有名だ。仁王は足を伸ばして座り込み、壁にもたれ目を閉じている。眠っているのだろうか。そうっと傍に屈み、仁王を窺うと微かな寝息を立てていた。
……こうして見ると、やっぱり格好いいな。
仁王は、何時も胡散臭い笑顔を浮かべているけど、美形と呼ぶに相応しい端整な顔立ちをしている。女子が放っておかない筈だ。私は、両手両膝を床に着いてそろそろとにじり寄った。
……寝顔も綺麗なんて、羨ましい。
凝視している私に気付くこともなく仁王は眠っている。ふと湧いた欲望に自分で慌て、誰も居ないと分かっていたけど周りを見回した。
……触っちゃ、駄目かな。
こんなに傍に寄っても起きないのだから熟睡していると思って間違いないだろう。実は前々から仁王の肩に垂らされた髪に触れてみたいと思っていたのだ。歩く度に揺れるしっぽに、猫じゃらしにうずうずする猫みたいに惹かれていた。私は身を乗り出して括られて肩に垂らしてある髪に触れる。それは色を抜いている割にさらさらで指に絡まることなく肩に滑り落ちた。
……う、わ。
至近距離に居るのにやはり仁王は起きない。それをいいことに仁王を観察し続けた。力無く投げ出された血管の浮いた腕は、細いけどしっかりと筋肉がついている。凛々しい眉と閉じられた目蓋、うっすらと開いた薄い唇と口元のほくろ、と目で辿っている内におかしな気分になった。
背中をじりじりと焦がす太陽も、剥き出しの膝と手にかかる自分の体重も私を正気に戻してくれない。今ならまだ引き返せると思いながらも私は止まることが出来なかった。女であってもこんな気分になるんだ。でもまさか自分がそんな状態になるなんて思っていなかったのに。混乱する内面とは裏腹に不思議なほど冷静に寄せた唇の先には仁王のそれ。一瞬だけの柔らかな感触と低い体温の後に、仁王のつけている香水だろうか、その香りを嗅いだ気がした。
「……ん?」
さっき自分の唇で触れた唇から落とされた呟きに肩が震える。仁王は目を覚ましていた。ぼんやりと私を見上げた仁王は微かに首を傾げる。
「……?」
私の名前を知っていたことにも驚いたのだけど、自分がしてしまったことの方の衝撃が大きかった。何てことをしてしまったのだろう。自分から、しかも、したことも無かったのにキスするなんて。おまけにあの、仁王に。今更のように顔が熱くなってくる。
「……っ、ごめんなさいっ!」
「待っ、」
最後まで聞かずに私は校舎に逃げ込んだ。後ろを窺う余裕なんて無かった。一段飛ばしで階段を降り空き教室に隠れる。ばたばたと足音が通り過ぎて行くのを息を潜めてやり過ごした。速過ぎる鼓動で今にも倒れそうだった。
◆
それから。休み時間の度に仁王は私を探しに来て、同じクラスの柳生に協力して貰いながら私は隠れ続けることになった。逃げたって何の解決にもならないって分かっているのだけど。
「……迷惑かけてごめんね、柳生」
「私は構いませんが……何時までも逃げ続けるのは難しいと思いますよ」
「そ、それはそうなんだけど」
「……相手が仁王くんですしね」
ため息と共に落とされた言葉は妙な説得力があった。
◇
昼休み、職員室にプリントを持って行くと丸井と行き会った。
「お、」
「丸井。久しぶりね」
丸井とは一年の時同じクラスだったので今でも会うと話す間柄だ。
「そういやオマエさ、」
丸井はにやりと唇の端を上げた。
「仁王に追い掛け回されてるらしいな。何したんだよ?」
「そ、それは……」
言葉に詰まった私を見て丸井は声を立てて笑う。
「まー頑張れよ。根性入れて逃げて見せろぃ」
逃げることを勧めるその口ぶりにぴんと来た。
「……いくら賭けてるの」
「五百円。ワンコイン」
悪びれることも無く丸井は言い放つ。急に頭が痛くなった。当事者にしてみたら笑い事では無いんだけど。そこまで考えてふと疑問が湧く。
「……それ、仁王も知ってるの」
「話してた時、居たからな」
けろり、と返されたので更に頭が痛くなった。賭けの対象なんかにされて、さぞかし気分を悪くしただろう、と申し訳ない気持ちは一杯なのだけど。そんな私をよそにのんびりと丸井は続ける。
「俺は四日に賭けてるから明日まで逃げ切れよ。今日だとうちの部長が勝っちまうし」
「いや逃げ切るよ、こうなったら!」
「そりゃ無理だろー。だって……仁王だぜ?」
やはり妙な説得力のある言葉を口にして丸井は笑った。
……仁王って、一体どういう風に思われてるのかしら。
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('07.6.24)