衝動/後編
「さん、大変です」
「え?」
帰り支度を整え教室を出ようとしていた時だった。今日最後の授業の終わりのチャイムと同時に姿を消していたのに、何時の間にか戻ってきていた柳生は携帯を手にして口を開く。
「仁王くんがこちらに向かっているようです」
「ええ?!」
「今日は部活も休みですから……」
その先は聞かなくても分かった。仁王は今日で片を付ける気だと。ちゃんと話さなきゃいけない、それは分かってるんだけど何を話せばいいのだろう。
「ど、どうしよう……あ!」
「どうしました」
私はバッグを掴んで教室を出る。柳生は自分もバッグを持って追いかけてきた。辺りを見回してみても仁王の姿は見えないことにほっとする。
「どちらに行かれるのです?」
「……柳生ならいいか。隠れる当てがあるのよ」
あまり知られていないが、社会科資料室の奥に準備室がある。以前、委員か何かの仕事の折にその存在を知って、何かあったら、とその時は笑い話のつもりで居た。だがこうなってくると有難い。周りを気にしながら社会科資料室に向かうと、幸いなことに鍵がかかっていなかった。その奥の準備室の扉のノブも難無く回り、開けると古い大地図や色の褪せた地球儀などが雑然と置かれていた。かび臭い空気の中、乱れた呼吸を整えるように深呼吸する。
「……ここなら、大丈夫だと思う。しばらく隠れとくわ」
「こんなところが……」
柳生は嘆息しつつ呟いた。その時、私の携帯が震えた。音を消していても空気を震わす振動に焦って携帯を開くとメールが一通来ていた。
――F r o m:柳生比呂士
――Subject:無題
――何があったのか知りませんが、ここまで仁王くんが執着するのは珍しいことです。
――観念してちゃんと話し合いなさい。
……え? 柳生、から?
携帯から顔を上げると、目の前に居た柳生の唇がゆっくりと弧を描く。ぞくり、と背中に鳥肌が立った気がした。
「……ようやっと、捕まえた」
「……な!」
柳生は眼鏡を外し口元をこする。その下に現れたのは見覚えのあるほくろ。思わず息を呑んだ。誰かに聞いたことがある。仁王は――詐欺師と呼ばれていると。そう、そこには仁王が立っていた。
「だ、だまっ、騙したの!?」
「口の回っとらんよ、」
籠城したつもりが敵を引き込んでいたなんて。じりじりと近付いてくる仁王から逃れようとしても狭い室内では背中がすぐに壁に当たった。くくく、と仁王の咽喉の奥から笑い声が漏れる。
「また都合のいいとこに逃げ込んでくれたのう」
「つ、都合のいいとこ、て」
私が絞り出した問いに、仁王は唇の片端を上げた。
「誰にも邪魔されんところ、て言えばいいか?」
「や、あの、」
両腕を壁につけ、私を囲い込む。そんなことをしなくても膝に力が入らないから逃げられそうになかった。
「……何で、あんなことしたん?」
仁王が近くて顔が熱くなる。この唇に、触れた、なんて。一瞬の出来事だったのに、ついさっきのことのように仁王の唇の感触や体温を思い出せた。強引に目を逸らしながら口を開く。
「……つい、かっとなってやりました」
「何処の犯罪者じゃ」
胸を衝き動かしたものに身を任せてしまった、としか言いようが無かった。遠くから見ていただけだったのに、近付いた瞬間触れてみたくなった。触れずには居られなかったのだ。
「全く……噂は立つし、賭けにはされるし」
「ご、ごめんなさい……」
「……まあ、噂は好都合やったけど」
「……え?」
訝るように仁王を見上げると、仁王は目を細めてため息をつく。
「……自分がどんな顔しとるか、分かっとらんやろ」
「どんな顔……て!」
仁王は鼻先が触れそうなくらい私に顔を寄せた。逃れようと身を退くと頭が壁に当たって鈍い音を立てた。
「い、痛い……」
「……何しとるんじゃ」
呆れたように仁王は私に手を伸ばした。顎を引いて身を竦めているとぶつけたところを撫でられる。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫、だけど、近い……」
優しく撫でる仕種と、さっきよりは離れたけど依然として近い距離に落ち着かない。どう逃げようか算段していると私の頭を撫でていた手に力が籠った。
「え……っ、ん!」
続きは言葉にならなかった。仁王が私の口を、自分のそれで塞いでいたから。何度も重ねられる唇に、胸も呼吸も苦しい。息を吸おうと口を開けるとそれを邪魔するかのように仁王は舌を滑り込ませた。駄目だ、もう、許容範囲を超えている―――何も、考えられない。
「……は、っ」
ようやく解放してくれた仁王をよそに肩で息をするしか出来なかった。
「な、何、するのっ」
「つい、かっとなって、な」
自分が言ったことをそっくり返されては何も言えない。口許を押さえた私を見て、仁王は微笑む。優しい笑顔に見惚れてしまった私に仁王は爆弾を落とした。
「好いとうよ」
「ひえ……っ?!」
思いがけないセリフに奇声を発してしまった。仁王は咽喉の奥で笑って私の頬に触れる。頬から唇へと滑る、ひんやりとした指の感触に体が震えた。
「て、訳でこれからよろしく」
「よ、よろしくって、何、が」
「お付き合いしましょう、いうことじゃ」
「えええっ?! どうして私とっ?!」
「さっき、好き、て言うたじゃろうが。それに、」
仁王は後ろで結わえたしっぽを抓んで見せる。
「俺と付き合うたら思う存分この髪にも触れるし、悪い話じゃ無かろ?」
「……起きてたの!?」
目を剥いた私に仁王は思い出し笑いするように口元を緩ませた。
「まさか襲われるとは思わんかったからのう……」
「おそっ、襲うって!」
「間違うとらんじゃろ?」
そう言って私の頬を撫でる。確かに、間違っていない。間違ってないけど。
「責任は、ちゃんと取って貰わんとな」
弧を描く唇から落とされる言葉は私を柔らかく縛る。再び寄せられた唇に観念して目を閉じた。
BACK / 受難(仁王視点)
('07.7.3)
以下、蛇足です。
当初、タイトルは「passion」にしようかと思ってました。激情、とか情熱、という意味以外に最初を大文字で書くと、キリストの受難という意味があるのです。なのでページタイトルはそこから。ちなみに後編のページタイトルはしっぺ返しの意。
寝ている仁王にキスして、それが原因で追いかけられる、というシチュが浮かんでしまったために書き上げました。変装ネタが大好きです(笑)。
そして上にあるように仁王視点もあります。リバーシブル。<好きだね。