天球の諧音/1










 彼女と逢った瞬間、何もかもが消えた。ここが何処で、何をしようとしているのか。頭の中から抜け落ちたように、消え去った。
 彼女は瞬きすら忘れたように俺を見つめている。そんなに目を見開いたら零れてしまうと心配するほどに。
 正直、困惑した。抱き締めたい衝動に駆られるなんて初めてだった。触れたくて、声が聴きたくて、気が狂いそうで。

「―――仁王!」
 
 丸井の声で、彼女ははっとしたように何度か瞬きをする。

「何やってんだよ、って……ナンパか? しかも氷帝の子を」
「ち、違います!! す、すみません、ぶつかったりして」

 頭を下げた彼女の声に、胸が高鳴った。

「いや、こっちも……すまんかったのう」

 言葉がうまく紡げない。今までこんな事は無かった。彼女は首を横に振り慌てたように立ち去る。その小さな背中が名残惜しかった。

「マジでナンパしてたのかよ」
「そんなんと、違う」

 声も、掛けられなかったのだから。
 互いに、言葉を失くし、ただ姿を目に焼き付けるのに必死だったなんて、言っても信じては貰えないだろう。立海のレギュラー陣が集まっている所に戻ると名前を呼ばれた。

「雅治!」

 声の主を見ると、そこには付き合っている彼女が居た。

「何や、来とったんか」
「失礼だなー。彼氏の試合、観に来たらおかしいの?」
「おかしゅうはないけど」

 楽しそうに微笑む彼女から目を逸らし答える。何となく彼女を真っ直ぐ見る事が出来なかった。


***


「……おった」

 柳生たちと別れ、人の疎らになった会場の入り口で待っていると、あの時会った彼女が通りかかった。
 彼女は、俺の姿を認めると驚いたように立ち止まる。

「……に、おうくん」

 名を呼ばれた事に驚いたが、その声で名を呼ばれた事が嬉しくて、気付くと笑んでいた。

「俺の名前、何で知っとうと?」
「さっき、そう呼ばれてたでしょう?」

 ……丸井に呼ばれた時の事か。
 弛みそうな頬を必死で抑え、改めて名乗る。

「俺は仁王雅治。あんたの名前は?」
「……


 確かめるように、口にした。目の前の彼女が消えないように。

「携帯番号、教えて」
「う、うん」

 躊躇い無く携帯を取り出し、俺の方に見せてくれる。登録して直ぐ、彼女の携帯にかけると慌てたようには携帯を見た。こうすれば、履歴が残る。

「それ、俺の」
「うん」
「今日は時間が無いから、また」
「……また?」

 不思議そうに見上げるを、抱き締めたかった。触れたくて、堪らなかった。

「そう。……また、会いたい」
「……私も」

 彼女は、目を逸らす事無く言葉を紡ぐ。
 何の確証も無く、彼女も、同じ気持ちなのだと思った。

「じゃあ」
「うん」

 彼女に背を向け帰途に着いた時、後ろ髪を引かれるという気持ちが初めて分かった気がした。


('06.1.20)


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