あの時から、蓮ちゃん、と呼べなくなった。










空に飛ぶ雲・1










本を読み終え、私はため息をついた。
……面白かった。
にやり、と思わず笑みが浮かぶ。ふと周りを見回すと教室には誰も残って居なかった。携帯で確認すると、もう、六時近い。
……あらあら。また。
携帯には一件の新着メールが届いていた。メールはからで、「先帰るよ」という簡潔なメールだった。

本を読み出すと、時間を忘れてしまう。そして部活も何もやってないくせに、しばしばこうして帰りが遅くなる。今日も、帰りのSHR中から読み出した本に夢中になってしまった。その時、ふいにインパクト音が響いた気がして窓の外を見下ろす。
……今まで全然聞こえなかったのに。
散ってしまった桜の木の向こうにはテニスコートが見えた。

「あ、」

……蓮ちゃん。
今はもう呼ぶ事のない呼び名が胸に浮かんだ。



***



いとこの柳蓮二はとても有名な人だ。
全国に名前が響き渡っている立海男子テニス部で、一年からレギュラー入りし、今年も、全国制覇を成し遂げようとしている。そんな人だから、私は中学に上がってから満足に言葉を交わせなくなった。気後れして、近寄る事が出来なくなったのだ。
……蓮ちゃん、と昔は呼んでいた事が嘘みたい。
それでも、中学に上がる直前までは呼んでいた。呼べなくなった日の事ははっきりと覚えている。立海大附属中学校の制服が出来てきた日。互いに着て見せ合おうと提案して、私はわくわくした。小学校までは私服だったから、制服にとても憧れていたのだ。

「ねー、もう、着てみ、た?」

蓮ちゃんの部屋のドアを開けて私は固まった。

、せめてノックくらいはしろ」

静かな、それでも何処か呆れたような口調で蓮ちゃんは言う。私は、ただ頷いた。
そこに居たのは、知らない男の子だった。

「どうした?」
「あ……ううん! まだ、大きいみたい、だね」
「身長が伸びる事を見越して買ったからな」
「そう……ね」

少し大きめの制服は、まだ彼には似合っていなかった。それでも、知らない人みたいで、私は驚いていた。
……蓮ちゃんってこんなに格好良い人だったんだ。
胸がどきどきして、私は、「蓮ちゃん」と、呼べなくなってしまった。



***



「遠いなあ……」

窓枠に凭れ、私はひとりごちた。何時の間に、こんなに遠くなってしまったのだろう。あまり会えなくなって、話せなくなって、離れてしまった。
……このまま、どんどん離れて行っちゃうのかな。
よく考えれば、いとこである事なんて、些細な繋がりでしかないのだ。親戚の集まりがある時も、部活があるから、と蓮ちゃんは来なくなった。お遣いに行っても、蓮ちゃんが居る事は無かった。

学校で話しかける事は出来なかった。クラスも遠く離れていたし、他の人の目もあった。私の事で煩わせる訳にもいかないくらい、彼は忙しかった。何よりも、胸がどきどきして気軽に話しかけられなくなったのだ。
蓮ちゃんが私を邪険に扱ったりした事は一度も無い。にこにこ笑いながら、時には間違いを正してくれながら、私の話を聞いてくれていた。それなのに。
……どうしてかな。
傍に居るだけで良かったのに、どうしてこんなに意識するようになってしまったの。

真田くんと言葉を交わす蓮ちゃんを見ていたら、蓮ちゃんがふいに顔を上げた。視線が、重なる。少し驚いたように目を丸くした後、蓮ちゃんは、笑った。私は息を呑む。背中を向けていた真田くんが振り返ろうとしたので私は思わず屈み込んだ。
……びっくり、した。
久々に見た蓮ちゃんの笑顔に胸の鼓動が速くなる。私は何度か深呼吸を繰り返した。暮れてゆく空が教室を夕焼け色に染めて行く。

「……帰ろ」

ここで座り込んでいても鼓動がおさまる訳でも無い。バッグに本と携帯を仕舞い、立ち上がった。入り口に掛けられていた鍵で、教室の鍵を閉める。薄暗い廊下を、職員室へと急いだ。


('04.9.30)


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