星は、すばる。 2・ケレノ





「すみません、仁王くん」

英和辞典を受け取りながら言う。

「良かよ。けど珍しかね、柳生が忘れもんするて」
「ええ、そうですね」

苦笑しながら答えると仁王くんは意地悪い笑みを浮かべた。

「何か、あったと?」
「これと言っては」

そう言い残し、教室に戻ろうとすると、視界の隅に何か引っ掛かった。勢い良く振り向くと仁王くんは驚いた顔をする。

「何や?」
「いえ……」

揶揄されると分かっていながらも、口を開いた。

「……あの方の、名前は」
「あの方? ……ああ、か」

にやり、と笑って仁王くんは続ける。

「フルネームは。……何、気になるん?」
「そうですね。ご期待に沿えるものでは無いと思いますが」
「じゃあ何や?」
「以前お見掛けしたんです」

そう言った所で予鈴が鳴った。

「……では」
「まあ、気が向いたら話しんしゃい」
「……そうですね。辞書有難うございます」
「おう」


* * *


「柳生」

名前を呼ばれて振り向くと、仁王くんが立っていた。

「……どうしました」
「ん? 部活行くやろ?」
「彼女に会いに行かなくて良いんですか?」
「……今日は、はよ帰るて」

少し拗ねたように言う、その仕草が可笑しくて笑みを漏らすと仁王くんは鼻を鳴らす。

「今日は真田に怒られんで済む」
「そう言うとまるで遅刻で怒られるのは彼女のせいのように聞こえますよ」
「分かっとうよ、遅刻するとは自分のせいじゃ」

嗜めると仁王くんは笑った。



去るもの追わずだった仁王くんは過去の事。現在の彼女と付き合いだしてからというもの、そんな話は聞かなくなった。あんなにテニス以外に興味を示さなかったのに。

この人、と思える人と出会えた喜び。それがどれくらいのものか、経験の無い私には分からないが悪いばかりでは無いのだろう。仁王くんは彼女の事を話す時、幸せそうに笑うのだから。



玄関に向かうとさんが靴を履き替えているところだった。その姿に思わず、びく、と肩を震わせる。疾しい事をした訳でも無いのに。く、と仁王くんは笑い声を漏らした。

「お前、分かり易か」
「……先日、屋上で寝ていらっしゃったんです」

唐突に言った言葉にも仁王くんは動じる様子も無い。

が?」
「そうです」
「そんで気になっとる、と」
「気になる、と言えばそうなんでしょうね」

さんは靴を履くと真直ぐ校門に向かい歩いて行く。その背中を何とはなしに見送った。

「……傍目八目てあるやん」
「はい?」

突然何を言い出すのかと訝しんで見つめると微かに笑う。

「人の事やと、よう見ゆる」

仁王くんはそう言いながら、靴を履き替えた。その言葉の真意は測りかねたけど、私も慌てて後を追った。


('05.1.17)


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