4/水伯











コートにおける観客席のような場所がプールにもある。初めて足を踏み入れたガラス張りのそこには、一人、男子生徒が居た。俺に気付くと驚いたように目を丸くする。何度か会議で顔を合わせたこともあるそいつは水泳部の部長だった。

「跡部?」
「見学させて貰っても構わねえか」
「それは構わないけど……どういう風の吹き回しだ?」
「水泳部の活動を見ておきたくてな」

そう言ってプールを見下ろす。
……人形みてえだな。
ゴーグルと帽子を着けた人形の群れが一心にコースの端から端を渡る。端に着きそうになるとくるりと前転し壁を蹴る。それの繰り返し。人形の群れはどれも同じに見え、がどれか分からなかった。目を凝らしていると、背後からのんびりとした声がかかる。

「監視せずとも、ちゃんと活動してるよ」

そう言った水泳部部長は制服のままだった。

「……お前は、今日は泳がねえのか」
「怪我しちゃってね」

水泳部部長は包帯の巻かれた手を掲げて見せる。

「理科の実験中、試験管を割ってざっくり。縫うまでは無かったんだけど」

気付くと、一人を除いてプールに居た人形達がこちらを見上げていた。ゴーグルを外し、数人で固まり何やら話している。

「跡部が居るからびっくりしてるんだな」

隣に並んで見下ろした水泳部部長は可笑しそうに呟く。

「一人以外、な」

それは確信に近かった。黙々と泳ぎ続ける一人こそ、だと。水を掻くしなやかな腕、水を蹴る足の締まった足首。一分も無駄の無い美しいフォームで彼女は水中を進んでいく。

「あー、か。あいつは仕方ないだろう。水に入ると性格変わるから」
「……人魚姫とか、言われてるらしいじゃねえか」
「人魚姫、ね。まあそう言われてるらしいけど、それよりほら、テニス部に芥川って居るだろ? 女芥川って言われる方が似合ってる気がするよ」
「そうか」

確かに普段のは人魚姫と評するに難いほど眠りこけている。しかし水の中のは違った。ここから表情までは窺うことは出来ないが、水を掻き分け泳いでいく体からは気迫のようなものが立ち昇り何人たりとも侵せない空気を纏っている。照明のせいかプールの色のせいか、青く染まる空間で自由に泳ぐは人魚姫と呼ばれるに相応しいと思った。



***



プールへと続くドアを開けると、熱気と鼻に付くカルキの香りで息が苦しくなる。纏わりついてくるそれらに眉をひそめながら一人でコースを往復するを見ているとようやく俺に気付いたはゴーグルを外しながらプールサイドに近づいてきた。

「……跡部くん?」
「よぉ」
「うわー、跡部くんがプールに居るのって似合わないね!」

失礼なことを言ってのけたは楽しげに笑う。

「……人魚姫」
「うぇ!? 跡部くんまでそれを言うの」
「プールに居る時だけはそう呼んでやってもいいぜ?」
「普段と違うって言いたいんでしょう? いいよ、別に。泡になんてならないもん」

は手の甲で顔を拭い俺を恨めしそうに見上げた。その表情は眠たげで、さっきまでの姿からは想像出来ない。

「随分気合いが入ってるみたいじゃねぇか」
「泳ぐの、好きなんだ」

はプールの縁を両手で掴み、目を細めた。

「水の中は苦しいけど、水から上がってるともっと苦しい。水の中なら少し掻いただけで進めるのに。水から上がると体が重くて仕方無いよ」
「……魚に生まれりゃ良かったな」
「本当に」

プールの水面で揺れる光を映し込んだような瞳では呟く。そして俺を見つめ何かに気付いたように目を見開いた。

「跡部くんの瞳って、よく見ると青いんだね!」
「……ああ」
「水面の色みたい」

今まで散々顔を合わせていたくせに今更だろう、そんな言葉が浮かんだが口から零れることは無かった。の言葉はカルキの香りと混じり頭の芯を揺さぶる。はそれに気付くこともなく言葉を続けた。

「プールの底から水面を見上げると、きらきら光って綺麗なんだ。自分が吐いた空気が泡になって昇っていって青に埋め尽くされるの。その色みたい」
「……水泳バカ」
「そうなのー」

同じように互いの瞳が水面のようだと思っても、俺は外から、は中から、見ているのだ。それは、俺との間にある距離だ、と思った。


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('07.4.16)