6/水涯
肩を貸した翌日、玄関で靴を履き替えているとと行き会った。欠伸をしていたは俺を認めると目を三日月の形に細める。
「この後、部活か」
はこくりと頷いた。
「そうだよー。跡部くんもでしょう? 大会近いってジローくんも言ってたし」
「まあな。お前もだろう」
「うーん、それもあるけど、」
煮え切らない返事に訝るような視線を投げるとはローファーを放りながら言った。
「正直、大会とか記録会はどうでもいいんだよね。や、結果を残したいとは思うよ? でも泳げれば何処でもいいから」
「……お前は本当に、」
爪先を床に打ちつけ靴を履いていたは俺の言葉に顔を上げる。
「泳ぐことしか考えてねえんだな」
の唇はゆったりと弧を描く。当たり前だと肯定するかのように。
は、溢れそうな感情をうまく飼い馴らしその白い膚の下に隠しているのだ。眠たげなゆるい笑みを身に纏って。の傍が居心地がいいのも当然だろう。はこちらに期待したり求めたりしない。ただ飢えたように水を求めて居るだけなのだから。その思いつきは何だか面白くなかった。その視界に映るのは、あの青い空間だけだということが。
***
「噂になっとるで」
「あぁ?」
部誌から顔を上げると忍足はにやりと笑った。後方のソファでは慈郎が眠りこけていて、微かな寝息が聞こえてくる。
「跡部様が人魚姫に手を出した、て」
「くだらねえな」
一言で切り捨ててやると忍足は苦笑して見せた。
「この前、に肩貸したんやろ? それ、見られとったみたいで噂になっとるんよ」
「……ああ」
望んだ訳では無いが、騒がれやすい身の上ではある。それからすると先日のことは軽率だったかもしれない。の身にまで及ばなければいいのだが。そう思考を廻らせながら部誌に再び視線を落とすと忍足は忍び笑いを洩らす。
「珍しいなぁ、跡部が肩貸したりとか」
「……ほんとだね」
突然後ろから声がしたので振り返ると慈郎が目を覚ましていた。両手を上げて伸びをした慈郎は俺を見据える。
「跡部、のこと気になんの?」
それは淡々とした口調だった。当たり前のことを当たり前に述べるような。慈郎は俺を睨んだりしている訳でも無いのに目を逸らすことが出来ない。下手な言い訳や誤魔化しは通用しない、と思った。
「……ああ」
これが好きだの嫌いだのという感情なのかは分からない。だが気になるかと問われれば、それは肯定出来た。が、気になる。慈郎はこくりと頷いた。
「そっか」
「慈郎も、のこと好きなんとちゃうの」
忍足が訊くと慈郎は首を横に振る。
「はただの昼寝友達。今はね」
「今は?」
忍足の問いに慈郎は微かに笑った。
「は、そういうの興味無いんだよ。でもいい匂いするから」
「はぁ?」
訳分からん、と忍足は小さく零す。俺には、分かった。
「……支度しろ、帰るぞ」
「書き終えたん?」
返事をする代わりに部誌を閉じて立ち上がる。二人を先にやり、部室に施錠してから、前を歩く二人を追いかけるでもなく歩を進めた。
慈郎はを好きだったのだろう。過去形で思うのは俺の希望的観測で、今もそうなのかもしれない。だが、慈郎にも分かったのだ。が、見ているものが。それしか、必要としていないことが。
……絶望的じゃねぇか。
それでもいいと慈郎のように傍に居られるか? それで満足出来るのか?
離れるという選択肢は無いことに気付いて腹が立つ。面倒なものは背負いこみたくない。だが諦めたくない、諦められない、もう。
「腹減ったー。忍足、おごってよ」
「何で俺がお前におごらなあかんねん」
「おれ、小遣い日前なんだよね」
「そんなん、関係あらへんわ」
前方を歩く二人の呑気な会話を聞きながら思考は深く深く沈んでいく。
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('07.4.24)