7/水温










しか居ないプールはが小さく身動ぐ度に波が立つ。コースを区切る浮きに掴まり、はただ浮かんでいた。



声をかけるとはゴーグルを外した。俺の姿を認めると、唇の両端を上げ、すいと水を掻いて近寄ってくる。

「どうしたのー?」
「水死体みたいだったぜ」
「え、あれ、気持ち良いんだよ?」

よいしょ、と口にしながら縁に手をかけ、はプールから上がった。競泳用の水着からすらりと伸びた手足を何となく見ていられなくて視線を外す。帽子を脱ぎ、犬がするように頭を振ったはベンチに腰掛けた。

「……跡部くん、勝ってたね」
「……何のことだ?」

ペットボトルを手にしたはくすりと笑う。

「この前、試合を観たの」
「来てたのか……」

先日、他校と練習試合をした時のことだろう。幾重にも重なった観客の中に居たとは気付かなかった。ペットボトルの中身を一口飲んでは返す。

「うん。ジローくんと約束してたから」

慈郎の名前に眉が寄りそうになった。はふわふわとした口調で続ける。

「噂には聞いてたけど、本当に強いんだね。観ていて圧倒された……目が、離せなかった」

その言葉には媚びも嫌味も含まれていなかった。ただ感想を述べただけに過ぎない。それでもざわり、と胸が騒いだ。

「……そうかよ」

は俺を見据える。

「跡部くんは、テニスをするのが好き?」
「……考えたことねえな」

テニスに関してはそういう感情を超えてしまっていた。勝てなければ負ける。引き分けることもあるがほとんど勝利か敗北かしかない世界は分かり易く、残酷だ。参加することに意義があるとはよく聞くがどうせなら勝ちたいと思うのは人間として当然の感情だろう。俺は負ける気はさらさら無い。だから勝ち続ける。それだけだ。だが。

「お前ほどじゃねえかもしれねえが、嫌いじゃねえよ」
「……怖くなったり、しない?」
「怖い? お前は怖いのか」

を見るとひどく透明な目をしていた。感情の見えない眼差しは俺のことも何もかも見ていない。

「……泳ぐのが嫌になるのが怖い」
「は?」

はプールの方に目を向けた。

「私の友達がね、好きな食べ物が出来たらそればっかり食べ続ける、って言ってたの。でもそのうち見るのも嫌になるんだって。毎日泳ぎながらそのことを考える。泳いでターンして、また泳いで。0.01秒を縮めるためだけに何キロも泳いでたら、そのうち嫌になっちゃうのかなあって」

それは次元が違うだろう、と言うことは簡単だ。でもが信じているのなら、それはにとって真実となる。

「部活として、競技として、泳がなければいいのかもしれない。泳げればいい、と思ってるのは嘘じゃないんだから。でも、誰よりも早く泳ぎたいという気持ちもあるの……やらしいことにね」
「……今まで、泳ぐのが嫌になったことあんのかよ?」

は咽喉の奥で笑う。

「幸いなことに無いんだよねえ! ……でも、何時かそんな時が来るのかもしれない。それが、怖い」 

初めて、に触れたと思った。滑らかな膚の下の情熱、その情熱に秘められた昏さ。例え能天気に見えても誰しも消せはしない不安や怖れはある。うまく行かない時も、うまく行っている時こそ余計に。それでも。

「でも、好きなんだろ」
「……うん」

それでも、彼女は泳ぐということを止めない。きっと、止めないだろう。

「じゃあ、好きなだけ泳げばいい。それに、これだけ入れ込んでるんだ。例え嫌になったとしても、後悔しねえだろ」
「うん……後悔だけは、しない自信があるよ」

はプールを見つめたまま頷く。

「そもそも、お前みてえなのが泳ぐことが嫌になったりするとは思えねえけどな」
「そう?」
「ああ。……んだよ、小せえことで悩んでんじゃねえよ人魚姫」
「またそれを言うー」

分かり易く頬を膨らませ俺を見上げたは、微笑んでいた。


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('07.4.29)