食べられるものならば。





3.塩 と 塩 味










何か飲むかと訊かれてと同じものをと答えたら、ウイスキーのロックが出てきて驚いた。

「飲まないの?」
「……いきなりこれですか」
「たくさんは飲まないから。あ、ビールもあるけど?」
「……いや、これで構わんけど」

はまるで水を飲むようにグラスに口を付けながら本を読んでいる。俺が傍に居てもお構い無しだ。

「課題か何か?」
「ううん。今度観に行く舞台の原作」
「……へえ、舞台なんて観に行くんじゃな」
「うん」

のことは何も知らない。躰のこと以外、何も。も何も訊いてこなかった。グラスに口を付けるとまだ薄まっていないせいか咽喉を焼く。

「なん、つまみとか無いと?」
「無いよ。塩でも舐めときなさい、ほら」

そう言って、塩の入った容器を置いたのでふき出してしまう。

「お前……色気無いのう」
「無いねえ」

は何でも無いように言った。俺は手を伸ばし、の手の甲を舐める。

「な……にっ?!」
「つまみ代わり」
「……塩はここ」
「こっちの方が良か」
「何よそれ……」

あんなことまでしているくせに、赤面してぼやくを見ながらグラスを口に運んだ。

は彼女が居るのにどうして来るの、とかそういうことを一切口にしない。それは楽だけど、面倒では無いけど、胸に薄く影を落としていた。その時携帯が鳴る。こういうのもタイムリーと言うのだろうか、付き合っている彼女からだった。はグラスに口を付けながらちらりと視線を寄越す。

「彼女?」
「んー、まあ」

携帯を操作しながら返した。受信メールを開いて思わず顔をしかめる。どうして付き合っていくうちにこんなに面倒になるのだろう。

「そろそろ、潮時かもしれん」

小さく息を呑む音に顔を上げるとが俺を凝視している。

「……どした」
「潮時って、何?」
「潮時は潮時じゃろ……別れるかもしれんな」

反応を見てみたくなって告げた言葉はを刺したのか、表情を強張らせた。

「……どうして?」
「何が」
「どうして別れるの」
「どうしてって……」

必死な表情に面食らってしまう。俺が別れればいい、とは微塵も考えないのだろうか。躰を許すくらいだから、多少なりとも俺に気があると思っていたのは自惚れだったのか。ふと思い出す。そう言えばは屋上に通じるドアの前でも俺の問いに首を傾げていたと。

他人のことが分からないのは当たり前だがのことは群を抜いて分からない。彼女持ちの男に抱かれて平然としているし、それを吹聴して回ることも無い。俺は携帯を閉じた。

、」
「何?」

は瞳に怯えの光を宿す。どうして、そんな顔をする?

「……いや、何でも無い」

途端に安堵したように緩めた肩を抱き寄せ口付けた。何かを誤魔化すかのように。アルコール味のキスは咽喉だけでは無く胸も焦がした。





細い腰や肩甲骨を見下ろしながら後ろから貫くとは床に爪を立てた。綺麗な爪がフローリングの床を削る。ベッドまで待てなかったせいで膝が痛くなることは必至だ。繋がったまま胸に手を伸ばすとかぶりを振る。型通り受け取るほど馬鹿ではない。
……分からん。
は断ることを知らないように俺を受け入れる。その動きはもう何度もこうしているというのにぎこちない。確認したことは無いが、俺以外としたことは無いのかもしれない。喘ぐ声を恥ずかしそうに噛み殺す姿や、慣れない仕種は演技とは思えなかった。
……何で、来てしまうんじゃろ。
飽きること無くの部屋に通う理由が自分でも分からない。歓迎される訳でも、特別なことをする訳でも無いのに。俺に揺らされる白い背中は薄暗い部屋の中で浮かび上がって見える。その表情は、見えない。限界が近付いてきて目を閉じた。見えないのだから、目を閉じていても同じことだ。



◇ ◇ ◇



「仁王くん?」
「……ああ、すまん。何やったっけ」
「店はここでいかがでしょう、とお訊きしたのです」

そう言って柳生は開いた雑誌のページを指す。テニス部の仲間達とは大学に上がりそれぞれ進路は別れたが、何かと集まっていた。今回は柳生が幹事で、柳生は外部の大学に通っているため予定調整で立海を訪れていた。学食の自販機で買った薄いコーヒーを飲みながらそれに視線をくれる。

「あー、良かとやない?」

その返答に柳生はため息をついた。

「どうしたんです」
「何が」
「……ご自分で、気付いておられないようなので申し上げますが」
「何じゃ勿体ぶって」

茶化すつもりで笑って言ったのに、柳生は可哀想なものを見るような目をする。

「何か、話したいことがあるのではありませんか」

わだかまりを素直に打ち明けられたらどんなに佳いだろう。しかしそれは出来なかった。プライドや人に褒められるようなことではない内容のせいだけではない、自分自身でもよく分からないからだ。

悩み相談、と言いつつも、それを口に出す時、既に心は決まっているのでは無いかと思う。話すことで渦巻く感情を確認し整理するだけなのだ。絡まった鎖を解くように。だが分からなかった、何を話せばいいのか。咽喉の奥に刺さった小骨が気になるのに、手をこまねいているしか出来ない気分だ。

「……気のせいじゃろ」
「ですが、」
「柳生じゃねえか。どうしたんだ?」
「丸井くん……」

丸井は手にした紙コップに口を付けながら隣に腰を下ろす。

「今度の幹事は私なんです」
「なるほど、それで来てたのか」
「店はここらしか」

雑誌を覗き込んだ丸井はうんうんと納得するように何度か頷いた。

「へー、いいんじゃね? あ、そういや仁王、」

丸井は紙コップの中身を飲み干し、テーブルに置く。その音は、こん、と何処か間抜けに聞こえた。

「お前別れたってマジ?」

好奇心に溢れた目に素直に答えるのは面白くないが頷く。

「またかよー」
「それで……」

柳生の呟きを耳にした丸井は更に目を輝かせる。

「それで、って?」
「何もありゃせんわ。柳生、日時はさっき話しとったんで決定じゃな?」
「あ、はい」
「了解。俺は出席で」
「分かりました」

バッグを掴んで立ち上がると丸井は不服そうに口を尖らせた。そんな顔をしたいのはこっちの方だ。

「話聞かせろよ」
「話も何も、別れた言うたじゃろ」

その時、食券の自販の前にの姿が見えた。は、友人達と笑いながら食券を購入している。再び腰を下ろすと、柳生と丸井は怪訝そうな顔をした。

「何だよ、仁王。話す気になったのか」
「ならん、けど……何を訊きたいんじゃ」

今、出て行くととすれ違う。仕方無しに言うと丸井は唇の端を上げた。

「何で別れたかとか……、」

丸井の言葉が耳を素通りしていく。吸い寄せられたように、の笑顔から目が離せなかった。あんな風に笑うのか。今まで見たことも無いほど、の笑顔は楽しげで無性に腹が立つ。俺の前では困ったように笑う顔しか見せないくせに。
……もっと、俺の前でも、

「あ、あれか? 次のオンナが出来たとか?」

思考を遮るような丸井の言葉にはっとする。
……今、俺は何を。
何度か通えば飽きる、と思っていた。手に入れば今までのように飽きるだろうと。だが、ちっともその時は訪れてくれなかった。

「……違う」

眉間に皺を寄せた俺を見て丸井はばつの悪そうな顔をする。横で柳生が困ったように見守っていた。

「合わんくなったから別れたまでで、次が出来た訳でも無い。これで満足か」
「そーんなに怒るなって」
「怒っとらん」
「じゃあ……何でそんな不機嫌な顔してるんだよ?」

丸井は慌てたように言う。達がテーブルに着いたのを確認して今度こそ立ち上がった。
……そんなもん、俺が知りたいくらいじゃ。



◇ ◇ ◇



「……どうしたの」

ドアを開けたは怪訝そうな顔をする。

「何が」
「だって、」
「だって?」

口籠るのを促すように見つめると、耐え切れなくなったのか口を開いた。

「昨日も、来たのに」

二日続けての部屋を訪れるのは初めてのことだ。それを訝るのも無理は無い。困惑するように視線を彷徨わせたを見ていると、ふと昼に見た笑顔を思い出した。燻っていた気持ちに火が点く。

「……駄目じゃった?」

は俺を見上げたまま表情を消した。そして首を横に振る。

「駄目じゃ、無い」
「そうか」

上がり込むとは何時ものように鍵とチェーンをかける。白熱灯が照らす部屋に歩を進めると、仁王、と背中に声がかかった。

「今日の昼、学食に居た?」
「……いや?」
「そう……」
「何で?」

振り返ると、はびっくりしたように目を見開いている。

「見かけたような気がしたから……」
「そ」

背を向けると安堵したようにはため息をついた。
……気付いて、いたのか。
じわじわと広がる感情は一つの答えを見つけ出す。手の甲を舐めた時、いっそ食べてしまえば良かったと。


('08.3.1)


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