陽炎、稲妻、水の月・2









召集を受け図書館に行ってみると同じ係の筈の先輩は居なかった。

「今日は先輩は来てないんですね」

作業を進めながらふと口を衝いていた疑問に司書の先生は笑う。

「外部受験する生徒さんを頻繁に拘束する訳にも行かないから」
「……は?」

呆けたような声を出した俺に、先生は独り言のように続けた。

「受験が無ければ委員長はさんに引き受けて貰うつもりだったのになー」

……どういう、ことだ。
混乱して何も考えられない。ばらばらになりそうな思考を必死でまとめながら声を絞り出す。

「……先輩は、外部受験するんですか」
「あら、聞いてなかったの?」

意外そうに呟いた先生の反応こそ、俺は意外で仕方が無かった。



*



「お、日吉」
「……お疲れ様です」

部室に入ると忍足先輩が居た。引退はしたけど先輩たちはよく部活を観に来る。時には軽く打って帰ったり。まだ居座るのか、という感情と、何処となく安心するような感情がない交ぜになって落ち着かない。
俺はさっきの先生の言葉が頭で回っていたけど、着替えようとロッカーを開ける。その背中にのんびりとした声がかかった。

「お前ら、まだ付き合うてないんか」
「……は?」
「めっちゃ焦ったわー。付き合うてんのやろー、て、に訊いたら思いっきし否定されてもうて」

釦を外そうとした手が止まったのに気付かず、忍足先輩は続ける。 

「あないな雰囲気醸し出しとるのになあ。早よ言わんと、あいつ外部受験するんやから、会えへんようなるで」

からかうように笑って発された忍足先輩の言葉は、深く、深く胸に刺さった。


忍足先輩も知っている事実を、俺だけが知らなかった。
それだけじゃない。俺は、先輩のことを、のことを何も知らないということに気付いた。彼女の進路も、趣味も何もかも知らない。あんなことまでしておいて、だ。家まで送って行ったことがあるから、自宅は知っている。でも、メールアドレスも携帯の電話番号も知らなかった。そもそも携帯を持っているのかも知らない。図書館に行けば彼女に会えたので今まで必要無かったのだ。受け入れてもらえたことに浮かれてそういったことにまで気が回らなかった。

膝に力が入らない。足元の床が抜けて奈落の底に落ちていくような気分だった。手にして、見ていた筈のものが、がらがらと音を立てて砕ける。どうしては、何も言わず俺を受け入れてくれるのだろう。俺の家に誘ったときどんな気持ちで頷いたのだろう。今まで思いつきもしなかった自分にほとほと呆れる、腹が立つ。


その日の部活は、散々だった。



***



翌日の昼休み図書館に行ってみると、先輩は書架の前に立ったまま本を読んでいた。俺が近付くと彼女は微かに笑う。

「……どういう、ことです」
「何が?」

唐突に切り出した俺の言葉に、先輩はきょとんとした顔をした。

「外部受験するなんて、聞いてません」
「言った覚えも無いね」

その言葉に呆気に取られていると、彼女は驚いたように目を丸くした。

「……日吉、私に興味があったの?」
「興味が無い人間に、ああいうことをするほど非道では無いつもりですが」

今にも弾けそうな感情を必死で堪えて、返す。先輩は小さく肩を竦めた。

「ふうん、知らなかった」

何でもないことのように言い放った彼女の両肩を掴んだ。その拍子に彼女の手から本が滑り落ちる。しんとした図書館に、本が落下した音は響いた。

「……何でアンタ、そんなに落ち着いてるんだ」

場所柄大声を出す訳にもいかず囁くと、先輩は口の両端を上げる。

「……日吉は、私に興味が無いと思ってたから」
「な……んで、そんなこと、」
「だって何も言わないし、聞かないでしょう」

雷に打たれたよう、とはこういうことか。ひどく、打ちのめされた。明確に言葉にしなかったくせに伝わっていると思っていた自分の身勝手さに。

「じゃあ、どうして俺と……寝たんだよ?」

口にすると陳腐な響きがしたが、余裕が無いせいか他に適当な言葉を思いつかなかった。彼女は目を伏せる。

「……日吉が、したいと言ったから」
「したいと言われれば誰にでも頷くんですか、アンタは」

苛々したように訊いた俺に、先輩は、く、と咽喉の奥で笑った。

「日吉が、と言ったでしょう。日吉の望むようにしたかったんだよ」
「……え?」
「……だから、何も言わなくても、聞かれなくても良かったの」

自嘲気味に呟いた彼女を抱き寄せると、大人しく俺の腕の中に納まった。柔らかい感触に荒んでいた心が静まっていく。

「……、」
「何?」

彼女は俺を見上げ首を傾げる。何度も触れたその唇を、自分のそれで今直ぐ塞いでしまいたかった。だけど、その前に。

「好きだ、俺と……つき合ってくれ」
「うん……」

は頷き俺の胸に顔をすり寄せた。

「ふふ……日吉の匂いがする」
「……そういうことを言うなよ」
「どうして?」

見上げるその仕種に、上がる体温で立ち昇る香りに頭の芯がくらくらする。

「今直ぐ、押し倒したくなる」
「じゃあ、代わりに、」

は背伸びをして俺に口付けた。触れただけのキスに背中を何かが駆け上がる。思わず、咽喉がこくりと音を立てた。

「……代わりどころか、煽ってどうするんだ」
「それは後で」

予約ね、とは笑ったりするから。

答える代わりに、軋みそうな程抱き締めた。


('06.10.30)


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